🟫長野|下諏訪 ― 春宮・秋宮を結ぶ町で、人馬を継ぎ、祭りの行列を迎えた土地

1|湖を望む扇状地に置かれた集落
下諏訪の東側にある高木地区では、山裾から諏訪湖へ下る扇状地の上が、異なる時代にわたって住居の場所に使われてきました。その一つが殿村遺跡です。湖岸の低地から一段上がり、北側に山地、南側に諏訪湖を望む位置にあります。
殿村遺跡では縄文時代中期の住居跡が確認され、隣接する東照寺地籍では平安時代や中世の住居跡が見つかっています。時代を隔てながら、人びとは湖に近い扇状地の高まりを暮らしの場所として使ってきました。
東照寺地籍では、平安時代の住居跡を中心に、網の錘として使われたと考えられる管状土錘も多数見つかっています。住居を湖岸の低地より一段高い扇状地に置き、そこから湖岸へ下って魚を得る暮らしがあったのかもしれません。
この場所で人びとがどのように水を得て、湖をどこまで利用していたのかは、時代ごとにさらに確かめる必要があります。それでも、近世に春宮・秋宮、街道、宿場、温泉を中心とする町場が形づくられる以前から、この扇状地が湖に近い暮らしの場所として使われていたことが分かります。
2|山と湖の間に広がった町場
下諏訪では、山地が諏訪湖の近くまで迫り、山から湖までの距離が短くなっています。山裾の斜面、河川がつくった扇状地、湖畔の平地に、住まいや町場が置かれてきました。
春宮・秋宮の周辺では、街道沿いに宿場や温泉地が発達し、住宅や商店などが集まる町場がつくられました。その南東側には甲州道中が延び、高木・富部方面の古い集落や神社の近くを通っています。
江戸時代には、中山道と甲州道中が出会う場所に、宿場と温泉の町場が発達しました。明治以降には、鉄道の開通、製糸業の成長、商工業や住宅地の広がりによって、市街地は湖側の平地へも広がりました。古い社や街道、温泉を中心とする町場を残しながら、その湖側へ新しい交通と仕事の場所が加わりました。
現在の下諏訪には、山裾の古い集落、春宮・秋宮を結ぶ道、宿場と温泉街、駅周辺の商店、湖岸側の住宅地が、山から湖へ下る限られた範囲に続いています。異なる時期につくられた場所が、山と湖の間に重なっています。
3|山から下る川と町に湧く温泉
下諏訪では、山地から流れ下る川が市街地を通り、諏訪湖へ注いでいます。また、町の中には地下から温泉が湧き出します。山から湖へ流れる水と、地中から湧く湯が、同じ市街地の中で異なる形で使われてきました。
町の西側を流れる砥川は、三峰山や鷲ヶ峰方面の山地から水を集め、市街地を下って諏訪湖へ流れ込みます。かつては砥川から複数の農業用水が取られ、田畑へ水を送っていました。宅地化が進むにつれて、農業用水としての利用は大きく減りました。
春宮の参道には、御手洗川という小さな流れがあります。御手洗川は下馬橋の下を通り、かつて参拝者がここで馬を下り、手を清めて春宮へ向かったと伝えられています。また、流れの一部は炊事や洗濯に使われ、明治期には製糸業を動かす水車の水源にもなりました。社へ入る前に触れる水であるとともに、周囲の暮らしや仕事にも使われてきた川です。
さらに、春宮・秋宮や旧宿場の周辺では温泉が湧きます。下諏訪温泉は古くから知られ、中山道や甲州道中を行き交う旅人も利用しました。のちには旅館や共同浴場へ湯が引かれ、町の人びとの日々の暮らしにも使われるようになりました。
下諏訪では、山から下る砥川、春宮の参道を流れる御手洗川、地下から湧き出す温泉が、近い範囲にあります。それぞれの水は、田畑、日々の暮らし、仕事、参拝、入浴に使われてきました。
4|春宮・秋宮を結ぶ三角八丁
下諏訪の古い町場には、下社春宮と秋宮、春宮大門近くの大灯籠を結ぶ「三角八丁」と呼ばれる一帯があります。明治41年の地図にも、春宮から大灯籠、そこから秋宮、さらに秋宮から春宮へ戻る道筋が、三角形を描くように示されています。中山道や春宮へ向かう道によって、この三角形の道筋が形づくられています。
下社では、2月1日に御霊代が秋宮から春宮へ移り、8月1日には春宮から秋宮へ戻ります。2月の遷座では、御霊代を遷す行列が秋宮を出て町の道を進み、約1.6キロメートル離れた春宮へ向かいます。8月には、その逆方向へ御霊代が移ります。二つの社を結ぶ町の道が、季節ごとに遷座の道として使われています。
8月の遷座祭では、御霊代の移動に続いて、青柴を取り付け、翁と媼の人形を乗せた柴舟が春宮から秋宮へ曳かれます。道中長持ちなども町の道へ繰り出し、柴舟と行列は、二つの社の間に続く道と家並みの中を進みます。
祭りの日には、沿道の家々が門口に下社の神紋を付けた御旗や提灯を掲げ、通りを進む行列を迎えます。三角八丁では、普段は人びとが行き交う道を、御霊代を遷す行列が進み、柴舟が曳かれてきました。春宮と秋宮を結ぶ道と家並みも、下社の祭りを支える場所になっています。
5|二つの街道が出会う下諏訪宿
下諏訪宿は、中山道六十九次のうち二十九番目の宿で、甲州道中の終点でもありました。中山道は東の和田峠を越えて江戸方面へ、西は塩嶺峠を越えて京都方面へ続き、甲州道中は諏訪湖の東側から甲府・江戸方面へ延びていました。異なる方向から来た人や荷物が、下諏訪の町場へ入りました。
宿場の中心は、綿の湯前に置かれた問屋場でした。ここでは、公用の書状を次の宿へ送り、輸送に使う人馬を手配し、助郷から出た人夫の賃金も扱いました。街道を進んできた荷物や書状は、下諏訪宿で人や馬を替えながら、次の宿へ引き継がれました。
宿内には約40軒の旅籠があり、1,300人を超える人が暮らしていたと伝えられています。本陣は大名や幕府役人などの宿泊に使われ、旅籠には街道を行く人びとが泊まりました。参勤交代や公用の通行がある際には、道路や橋の修理、清掃、警護、荷物の運搬などを、宿場と周辺の助郷が担いました。
下諏訪宿には、東西へ延びる中山道と、甲州方面から入る道が集まりました。旅人は宿で身体を休め、問屋場では荷物や公用書状を次の宿へ送るための人馬が用意されました。下諏訪宿は、街道を進む人や荷物を受け入れ、次の峠や宿へ送り出す町場として使われてきました。
6|町の暮らしの湯が、旅人にも開かれた
下諏訪宿では、街道を行き交う旅人と町の人びとの身近な場所に温泉がありました。綿の湯、児湯、旦過の湯などが利用され、江戸時代の『木曽路名所図会』にも、下諏訪宿へ着いた旅人や、綿の湯に入る人びとの様子が描かれています。宿場で身体を休める場所と、温泉に入る場所が近い範囲に置かれていました。
同じ湯は、町の人びとの毎日の暮らしにも使われていました。綿の湯、児湯、旦過の湯には近隣の人びとが通い、旦過の湯には湯汲み場が設けられていました。毎朝、炊事や洗濯、雑巾がけに使う湯を手桶に汲んで家へ持ち帰り、御田町や下原など、約1キロメートル離れた場所から湯を汲みに来る人もいたといいます。
下諏訪では、土地の恵みである湯が町の暮らしの中で使われ、その町を通る旅人も同じ湯に入りました。中山道と甲州道中が交わり、諏訪大社下社の門前町でもあった下諏訪では、暮らしの湯と、旅人を迎える湯が同じ町の中に重なっていたのです。
綿の湯には、八坂刀売神と結びつく「ご神湯」の伝承も残っています。土地から湧く温泉は、神と結びついた湯として受け止められ、町の人びとの暮らしに使われ、街道を行く旅人にも開かれてきました。
明治になると宿駅制度がなくなり、立町の大火も重なりました。その後、復興のために旅館への引湯が認められ、桔梗屋、湊屋、丸屋などは温泉宿として営業を続けました。湯田町でも新たに旅館を営む人が現れ、宿泊客は旅館の内湯を利用できるようになりました。街道の宿として使われてきた町場では、温泉を旅館へ引くことで、旅人や湯治客を迎える場所が続いていきました。
こうして下諏訪の湯は、共同湯で使われ、手桶で家々へ運ばれ、旅館へ引かれました。入浴、炊事、洗濯、宿泊など、同じ土地から湧いた湯が、町の中でさまざまな暮らしを支えてきました。
現在もこの関係は続いています。町内には6か所の公衆浴場があり、300円で利用できる浴場も複数あります。また、町内には温泉配湯管が埋設され、自宅へ温泉を引くこともできます。温泉は共同湯、旅館、家庭へ配られ、町民の健康や福祉、日々の生活を支える地域資源として使われています。
下諏訪では、町の暮らしの中に温泉があり、その同じ湯が外から来た人にも開かれてきました。土地から湧く湯、神と結びついた湯、町の人が日々使う湯、旅人が身体を休める湯が、同じ町の中で重なっています。
町の暮らしの湯が、旅人にも開かれてきたことが、下諏訪の温泉の大きな特徴です。
7|山から下る御柱と地区に広がる小宮祭
下社の御柱には、下諏訪の山側にある東俣国有林で選ばれたモミの大木が使われます。前年に伐採された8本の御柱は棚木場まで搬出され、山出しでは、そこから萩倉の集落を抜けて曳き下ろされます。途中の急斜面では「木落し」が行われ、山出しを終えた御柱は注連掛まで運ばれ、春の里曳きを待ちます。
里曳きでは、注連掛から8本の御柱が曳き出されます。春宮の4本は春宮へ、秋宮の4本は春宮を経て秋宮へ向かい、それぞれの社殿を囲む四隅へ1本ずつ建てられます。山にあった大木は、萩倉を通り、町の道を人びとに曳かれながら、二つの社まで運ばれていきます。
御柱の年には、大社の里曳きが終わった後も、町内各地で小宮祭が続きます。熊野神社など各地区の神社では、地区や集落の人びとが御柱を曳き、社の周囲へ建てます。道中長持ちや神輿などが、集落の道へ繰り出すところもあります。
さらに小さな範囲では、「マキ」と呼ばれる家々のまとまりでも御柱祭が行われます。子どもたちが小さな御柱を曳き、年配者に教わりながら、マキでまつる祠へ建てる例も伝えられています。下社の春宮・秋宮だけでなく、地区の神社や身近な祠でも、それぞれの人びとが柱を曳き建ててきました。
下諏訪では、大社の御柱が山から春宮・秋宮へ曳かれ、その後には町内各地で小宮の御柱が曳かれます。大社から地区の神社や身近な祠まで、それぞれの道を使って柱を運び、建てる営みが続いてきました。
8|製糸と鉄道によって湖側へ広がった町
明治に入ると、下諏訪では製糸業が大きな仕事になりました。町内には器械製糸の工場がつくられ、とくに小規模な工場が数多く操業しました。昭和3年には、50釜以上の大・中規模工場が13工場だったのに対し、49釜以下の小規模工場は66工場ありました。製糸の仕事は、一つの大工場へ集まるだけでなく、町内の各所へ広がっていました。
山側の萩倉でも、明治11年に器械製糸が始まりました。周囲の山から燃料を得やすく、水車を動かすのに必要な水量と落差もあり、和田峠を通って運ばれる繭を受け取りやすい場所だったためです。
明治28年には、7工場で500人余りが働くまでになりました。その後、鉄道が開通し、燃料が薪から石炭へ移ると、萩倉は製糸工場町としての姿を失っていきました。使う動力と荷物を運ぶ道が変わるにつれて、製糸工場を置く場所も変わっていきました。
製糸業が盛んになると、工場で働く人や、繭・燃料を運ぶ人が町へ集まりました。旧宿場の旅館や料理屋、商店は、こうした人びとの宿泊や食事、買い物にも使われました。街道の旅人を迎えてきた町場が、明治以降には製糸の仕事に関わる人びとも受け入れるようになりました。
鉄道が開通する前には、木の下町に「下諏訪銀座」と呼ばれる商店街があり、町内だけでなく岡谷や上諏訪方面からも買い物客が訪れたと伝えられています。鉄道が開通すると、商いの中心は下諏訪駅周辺の友之町へ移り始めました。その後、御田町、友之町本通り、駅通り、菅野町など、駅に近い側へ商店が集まっていきました。
下諏訪では、宿場と温泉を中心とした山側の町場に加えて、製糸工場や鉄道駅、商店のある場所が、より湖側の平地へ広がりました。街道から鉄道へ人と荷物の動きが変わるにつれて、仕事と商いを置く場所も変わっていきました。
9|社・宿場・温泉・仕事の場所が重なる下諏訪
八ヶ岳山麓では、川が刻んだ谷で水田を営み、その間に残った細長い台地に集落や畑を置き、山側の原野や森林で草や萱を刈り、薪を採り、木材を切り出してきました。
上川・宮川流域では、山から下る水の一部をせぎへ取り入れ、斜面に沿って延ばし、複数の川筋を越えながら水の少ない田畑へ送りました。
諏訪湖周辺では、湖面や浅瀬で漁を営み、湿地や湖岸の低地の一部を田畑に使ってきました。釜口では、諏訪湖から天竜川へ水が流れ出す出口を広げ、下流の河道を掘り下げ、水門によって湖水位と放流量を調節してきました。
下諏訪では、山地が諏訪湖の近くまで迫り、その間の限られた土地に、湖に近い古い集落、春宮・秋宮、三角八丁、下諏訪宿、温泉を使う宿や共同湯、のちの製糸工場、鉄道駅、商店が置かれてきました。
町の西側では砥川から田畑へ水が送られ、春宮の参道では御手洗川が参拝、炊事、洗濯、製糸の水車に使われました。地下から湧く温泉は、旅人の入浴、宿の内湯、町の共同湯、家々の炊事や洗濯に使われました。
宿場では旅人が休み、問屋場では荷物や公用書状を次の宿へ送るための人馬が用意されました。春宮と秋宮を結ぶ町の道では、御霊代を遷す行列が進み、柴舟が曳かれました。山から曳き下ろされた御柱も町の道を通って二つの社へ運ばれ、御柱の年には町内各地の小宮や祠でも柱が曳き建てられました。
近代には製糸と鉄道が加わり、仕事や商いの場所は駅周辺や湖側の平地へ広がりました。街道から鉄道へ人と荷物の動きが変わるにつれて、町の中で人が集まる場所や仕事を置く場所も移っていきました。
下諏訪は、山と湖の間の限られた土地に、古い集落、春宮・秋宮、街道、宿場、温泉、仕事の場所が重なってきた土地です。宿場では旅人が休み、荷物や書状を次の宿へ送るための人馬が用意されました。町の道では御霊代を遷す行列が進み、柴舟が曳かれ、御柱が二つの社へ運ばれました。温泉は宿、共同湯、家々で使われ、近代には仕事と商いの場所が駅周辺や湖側へ広がりました。
















