信濃國【泰阜村】ー和して栖(す)む、祈りの泰き村
泰阜村|遥か彼方から、風に乗ってやってきた人々の物語
南山では武を誇り、楽しみを分かち合う「南山衆」が生まれ、稲伏戸では熊野の仏を背負い、祈りを支えに村を拓きました。さらに我科(がじな)では、鎌倉を落ち延びた三浦一族が幸を求めて谷に根を下ろし、譲葉の祈りを紡いだのです。
出自の違いを越え、自然と共に助け合って築かれたこの地の暮らしは、いまも“和をもって道を拓く心”として息づいています。泰阜村は、未来を共に育む“泰き村”なのです。
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⏳ 先住民と天竜川流域の暮らし
- 縄文時代、天竜川や山の恵み(漁労・樹実・燃料)を活かし、南部を中心に定住が始まった。
🏯 鎌倉時代:武士団の進出
- 地頭・知久氏が南部を統治し、農耕文化を支えた。
- 豊島氏(関東武士団)が北部を開拓し、戦略的拠点を形成。
- この違いが、南部と北部の文化的差異を生む要因となった。
⚔️ 南北朝時代:移住者の流入
- 鎌倉幕府滅亡後、多くの敗残武士が天竜川を遡り、山里へと定住していった。
- 吉沢郷・中島郡(南信)からの武士団が田本村・打沢村を開村。
⛰ 紀州熊野からの移住者
- 南北朝期、紀州熊野から薬師如来を奉じた林氏一族が移住し、秘仏を祀る自律的な集落を築いた。
南山郷|誇りと技が息づく、山の者たちのいにしえ譚
序章|奥山に息づく歓びの魂
泰阜村の奥深き山々に抱かれた南山。
かの地は、山の恵みを糧となし、誇りを抱き、楽しみを分かち合ひて暮らす者たちの里でした。
山にて技を磨き、仲間と和して生きる——その息吹はいまもひそやかに残されているのです。
第一章|誇りを守る山の者たち — 縄文の理をもて生きる
かの地はかつて、戦の荒波をくぐり抜けた者たちが、己の魂(たま)へ還るための斎庭(ゆにわ)でした。
火を囲み、酒を酌み交わし、「人間らしく、楽しむこと」をもう一度思いだす。
戦(いくさ)は目的にあらずして、生きる技と誇りを磨くための修練場だったのです。
お互いの技を分かち合ひ、縄文の魂(たま)に“あり難き”を捧ぐ。
その志を貫いた者たちは、やがて「南山衆」と呼ばれるようになりました。
第二章|技と誇りで生きる者たち —いくさを越え、和を生きる
南山衆にとって、戦(いくさ)は仕へる先ではなく、己がわざと誇りを磨く“行場(ぎょうば)”でした。
狩りと武芸を糧に、山で自ら立ち上がり、楽しむことを忘れず —
その志は今も、「歓(よろこび)を共にし、和して栖む日々」となって、南山に息づいているのです。
第三章|共に生きる歓びの魂 — 山岳縄文の風が吹く集落
南山の衆(しゅう)は、榑木(くれぎ)を伐り、川に流し、年貢として納めていました。みな心を一にして働き、共に笑みを交わしていたのです。
-
衆(おほ)くの人々が共に山へ入り、木を伐りて川へと流す。
-
業(わざ)をやり遂げ、互ひに笑みを交わす。
-
榑木を送り出し、自ずと宴(うたげ)が始まる。
かくて「榑木踊り(くれきおどり)」が始まりました。
火をめぐりて狩人のごとき宴は、いつしか喜びの祭りとなったのです。
第四章|南山一揆 — 山の誇りを貫きし声の記憶
南山の日々の営みも、やがて過ぎたる年貢の重みに耐えかね、村人たちは立ち上がりました。
されど、衆どもは巧みなるわざをもって、幕府をもたじろがせたのです。
かくして一人の犠牲者もなく南山の理(ことわり)を一途に通しました。
南山の者には、一目を置くべきなりー
その尊けき志は、今も語り継がれ、静かに受け継がれています。
南山に棲むいにしえの魂(たま)はひそやかに、されど確かに、山の奥つ方に響き渡っているのです。
楽しみを以て和し、日々を紡ぎゆけ —
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地域カプセル|南山
稲伏戸|熊野の仏を負ひて、甦りの道を織る山の里
序章|稲伏戸と熊野信仰の交わる息吹
泰阜村の北の山あい、いにしえより仏を奉じて村を拓いた小さな集落――それが稲伏戸です。遥か紀州より落ち延びた者たちの息吹は、いまもこの地に静かに息づいているのです。
第一章|熊野より旅立ち、南朝の灯を胸に
南北朝の戦火に追われ、紀伊の熊野より北を目指して旅立った一族がありました。それが林一族でした。
この者たちは南朝に味方していましたが、戦の荒波に揉まれ、北朝の勢力に追われて、ついにはふるさとの地を後にすることとなったのです。
信濃の国は、南朝に心寄せる者の多い地でした。しかし、その道のりは険しく、山また山を越えての旅は、まるで熊野の修験のような、祈りを重ねる旅路だったのです。
第二章|薬師を奉じ、異郷へ踏み入る
やがて彼らは、三河の国・鳳来寺山にたどり着きました。
そこで耳にしたのは、信濃には諏訪信仰を戴く武士たちが多く逃れて根を下ろしているということでした。
自らの信じる熊野の神々とは異なる神々の地であると知ったのです。
「われらが熊野権現さま見守らず地で、果たして心穏やかに暮らせるものか」
そう語り合った末に、一族は薬師如来像を奉じて、泰阜の地に入ることにしました。この仏こそが、自分たちの魂を護るものであり、心の支えとなるべきものだったのです。
その夜、皆が薬師の像の前に集い、首を垂れて祈りました。
「どうか、この先の道をお導きください。我らの命、どうかお護りくださいー」と。
第三章|仏を秘めて、山の里をひらく
こうして、一族は泰阜村の北部、いま稲伏戸と呼ばれる地へとたどり着いたのでした。深い山々に抱かれたその地で、その者たちは仏を心の拠り所にし、少しずつ村を拓き始めました。
この仏は、他人には見せぬこと。これは、我らの魂を護る熊野の権現さまの化身なのじゃ。」
そして、朝は山に分け入り、夕は薬師の側で語らい、癒しと力を得て、日々の営みを重ねていきました。
やがてその者たちは、隣の村々を助け、人のために尽くすことを、誇りとするようになったのです。
第四章|薬師仏の祈りといにしえの灯火
「この先も、望みを託す者たちに光を届けるのじゃ——」
月日は流れ、世は移ろえども、その志は今も変わらず、薬師堂の横に息づいています。春には若き者らが集い、夜には仏のそばで酒を酌み交わし、語り合う光景が見られます。
その仏は、今も秘され、薬師堂にてひっそりと祀られているのです。
そして、風と共に囁かれる声が聞こえてきます。
「よう、来たなーーここにお座りなされ。」
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地域カプセル|稲伏戸
我科|幸いを求め、たどり着きし泰らかなる里
序章|山にひそみし言霊、いま風となりて
かつて鎌倉の栄華から追われた三浦の者たちは、天竜川をさかのぼり深き谷へと身を寄せました。
山の奥にて縄文の神々の恵みを糧とし、譲葉に祈りを捧げ、やがて「我科(がじな)」と呼ばれる里を拓きました。
その代々(よよ)の営みは今も泰阜の山々にひそみ、谷の風とともに言霊となって響いているのです。
第一章|落ち延びて、山に祈る
かつて鎌倉幕府の宿老として名を馳せた三浦氏。
しかし宝治合戦に敗れ、その栄華は音もなく崩れ落ちました。
命脈を保つため、一族は各地へと散り、ある者は三河の地に流れ着きます。
けれど、そこでも安寧は得られず、再び争いに巻き込まれることとなったのです。
——「幸わいは、いずこにあるのじゃ?」
そこで、逃れし者どもが選んだのは、天竜川をさかのぼる、遥かなる信濃の奥。
やがてたどり着いたのは、いま「二軒屋」と呼ばれる深い谷。
人知れず、静けさに抱かれ、豊かな山の恵みをよりどころに暮らす場所。
それは、“守るべき何か”をたずさえた者たちが選びとった、「祈りの地」でした。
第二章|譲葉の祈り、命をつなぐ
やがて三浦の一族は、この地に根を下ろし、山を静かに拓いていきました。
そして、自らが繋ぐ命の絶えぬことを祈り、受け継ぐ者たちへの想いを込め、ささやかな祠を建てました。
それが、「譲葉大明神」です。
譲葉とは、若き葉に命を託し、後の世へと想いを託す祈りでした。
その後も、少しずつ森を切り拓き、谷の水に田を作り、山の恵みを受けながら生を紡ぎました。
ささやかな営みに感謝しつつ、日々暮らしていったのです。
第三章|谷風とともに、幸わいの里・我科へ
知らぬ間に、幾世の代を重ね、そして、長い月日が流れました。
やがて一族は、先の人々が落ち延びた、さきわいの大河――
天竜川のほとりにある小さな里に辿り着きました。
陽が照り、川の水と山の恵みに満たされた地でした。
煌めきながら流れくる一筋の山の水が、この地を潤していたのです。
辿り着いたその里を、その者どもはいつしか『我科(がじな)』と呼ぶようになりました。
今でも、山の奥の方より流れくる一筋の水にそっと手を浸すと、微かな囁きが谷風に乗って聞こえてくるのです。
命と水のありがたきを、忘るるなかれー
我(われ)の科(しな)――己が拓きし道、幸せとならん。
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地域カプセル|我科
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