泰阜村の『履歴書』—戦乱を逃れ、未来を共に育む泰き村
泰阜(やすおか)村
戦乱を逃れ、未来を共に育むー
泰阜村では、遠い昔から、異なる出自の人々が手を取り合い、共に未来を築いてきました。この地に集ったのは、戦乱に敗れ、安住の地を求めた者たち。しかし、彼らは身分の違いに縛られることなく、平等に助け合いながら村を作り上げてきたのです。
その精神は今も息づき、都会では薄れつつある『心の豊かさ』や『人々のつながり』の価値として見直されています。
泰阜村の『共生の心』は、これからの時代を生きる私たちにとって、より大切なものになっていくでしょう。
※ ここでご紹介する内容は、できる限り歴史資料を参考にしていますが、あくまで一つのストーリーとして展開しています。「こういう見方もあるのかも?」という気持ちで読んでいただければ幸いです。
泰阜村は、戦乱を逃れた武士たちが新たな生活を築いた村です。
彼らは「共に生きる仲間」として受け入れられ、力を合わせて村を開拓しました。
こうした歴史から、助け合いの文化が生まれ、自然と共に生きる暮らしが根付きました。
村には、新しい人々を迎え入れながら共に成長する精神が息づいています。
泰阜村のアイデンティティは、「自然との共生」と「共に築く未来」です。
これは、新たな仲間と共に、村をより良い場所へと育てる精神を表しています。
🛖 泰阜村のルーツ: 南北の恵みを分かち合い共に生きる村
泰阜村の南部と北部は、地理的・歴史的背景が異なります。南部は縄文時代から続く「自然との共生」の文化。一方、北部には戦乱を逃れた武士たちが開拓した「開拓と受け入れの文化」が根付いています。
- 南部:天竜川沿いの肥沃な土地 → 縄文的な共同体文化が発展しました。
- 北部:山間部での開拓 → 武士たちの協力意識が強まりました。
🌱 南部:自然と共生する村の母体
泰阜村の南部は、天竜川沿いの豊かな自然に恵まれ、縄文時代から共同体意識が根付いてきました。人々は自然と共に暮らし、穏やかな共生文化を築いてきました。
🪓 北部・南山:開拓の地と強い結束
一方、南山(南部の山間部)や北部には、鎌倉時代以降、戦乱を逃れた武士たちが移り住み、協力しながら開拓を進めました。こうして「助け合いながら新たな暮らしを築く文化」が根付き、南部とは異なる開拓精神が育まれました。
🌲 共生と開拓の村 ― 泰阜村の南北のつながり
北部は自然の恵みを活かしながら開拓を進め、新たな人々を受け入れてきました。南部が自然との共生を重視した安定した文化を持つのに対し、北部は新しい人々と共に発展する開拓の文化を築いていきたのです。
🦝 南北を越えた村の絆—『タヌキが描いた絵』
泰阜村には、南部と北部それぞれに、同じ「不思議な絵」が1枚ずつ残されています。その由来には、次のような伝承があります。
「昔、都の公家が南部を通った際、地元の人々は手厚くもてなしました。しかし、公家が北部へ向かうと、そこでは『それはタヌキが化けた姿だ』と見破られ、飼い犬に噛み殺されてしまった。」
この物語は、南部と北部の人々の文化の違いを表しているのかもしれません。
🛖 南北の気質と文化
南部(温田)は、縄文時代から自然と共に暮らし、朝廷の文化を尊重する姿勢がありました。(南朝支持)
北部(柿野)は、戦乱を逃れた武士たちが開拓した地域で、厳しい環境の中で生き抜く実直な気質が根付いていました。(北朝支持)
この違いが、南部の人々には「朝廷に敬意を払う村」、北部の人々には「独立心の強い武士の村」というイメージをお互いに抱かせていたのかもしれません。
😊「タヌキが描いた絵」に込められたユーモア
この不思議な絵は、南北の人々の相互のイメージをユーモラスに表したものだと考えられます。
- 🦝 南部の人々から見た北部 → 「独立心の強い武士の村」
- 🏯 北部の人々から見た南部 → 「朝廷に敬意を払う村」
そして、絵の中の顔はどこか落ち武者のように見え、さらに胴体は泰阜村の地形にも似ている気がします。それは、南部の人々が抱いていた北部の武士のイメージを表しているのかもしれません。

📝 画像引用元:泰阜村公式サイト
🎭 「お互い様だよね」と笑い合う南北の人々
しかし、南北の人々はこの違いを敵対ではなく、笑い合うユーモアとして受け止めました。
「タヌキに化かされたのはどちらか?」
「結局、お互い様だよね!」
そうして、南部と北部に1枚ずつ同じ「タヌキの絵」を残したのです。
この絵こそ、泰阜村が大切にしてきた「違いを認めながら共に生きる精神」の表れなのかもしれません。
南部を省くと「タヌキの絵」に形がそっくりだと思いませんか?
🛖 泰阜村の歴史:時代を超えた物語
🌱 縄文・弥生時代
温田宮の平は、天竜川沿いに広がる交易地でした。
古くから人々が行き交い、豊かな土壌を活かして農耕が営まれていました。
温田宮の平は、天竜川沿いに位置し、古くから物資の交換地として栄えた地域です。この地は最大の河原として知られ、天竜川を挟んで人々の交流が盛んに行われてきました。東には田本や大畑の深見を中心とする三紀層の緩傾斜地が広がり、初期の水田耕作にも適した地域とされています。
三紀層の土壌は、堆積物が豊富でミネラルや栄養分が多く含まれていることが多いため、農作物がよく育つ土壌といえます。さらに、緩やかな傾斜地は水はけが良いため、作物が育ちやすく、農地として非常に適した条件が整っています。
したがって、この地域は、縄文時代から弥生時代にかけてのさまざまな文化の痕跡を残しており、温田宮の平からは土器や須恵器など、時代を超えた多彩な遺物が出土しています。
🏺 古墳時代
古墳時代になると、泰阜村には大きな権力構造はなく、
縄文時代からの暮らしが続いていたと考えられます。
🌸 奈良・平安時代
奈良時代、泰阜村は中央政府の管理下にありました。
しかし、遠隔地であったため、大きな政治的変動を受けることは少なく、
村の生活はほとんど変わらなかったと考えられます。
⚔ 鎌倉・南北朝時代
この頃、地頭である知久氏がこの地域を治めるようになりました。
しかし、泰阜村は辺境の地であったため、中央の戦乱の影響を受けにくかったようです。
そのため、地元の人々の間で「共生」の文化がより強固なものになっていきました。
- 📜 知久氏と泰阜村の歴史
泰阜村は、鎌倉時代から南北朝時代にかけて知久氏の支配下にありました。
知久氏は「地頭」として土地を管理しましたが、泰阜村は中央から遠く、辺境の地だったため、南北朝の戦乱や大きな政治的変動の影響は少なかったと考えられます。 - 🌿 自然と共生する信仰
知久氏が属していた諏訪神党には、- 「戦う神」としての武神信仰
- 「自然を敬う信仰」
この2つの側面がありましたが、泰阜村では特に自然崇拝が重視されていました。
知久氏もこの土地の文化に合わせ、「自然と共生する信仰」を大切にしていたと考えられます。これにより、縄文時代から続く自然との共生文化が維持され、安定した地域社会が形成されました。
- 🏡 戦いから逃れ、守られた暮らし
南北朝時代、知久氏は南朝側につきましたが、泰阜村は地理的に辺境だったため、戦乱の影響はほとんど受けませんでした。
そのため、村では伝統的な生活が守られ、自然の恵みを活かした穏やかな暮らしが続いていました。
🏯 室町・戦国時代
戦国時代、武田信玄がこの地にも侵攻してきました。
しかし、泰阜村は山深く、自然の防御力が高かったため、武田氏は南山衆を組織して、この地を守らせました。これが後の結束の強さにも繋がっています。
- 室町時代
室町時代においても知久氏は、徐々に勢力を拡大し、地方の有力な豪族(守護大名に近い立場)としての地位を確立していきます。しかし、戦国時代に入り、武田信玄の勢力が信濃国を制圧していく中で、知久氏もまた武田氏の侵攻を受け、最終的には滅ぼされてしまいます。
つまり、知久氏は地頭としての基盤から始まり、室町時代には守護大名的な役割を持つようになるものの、戦国時代の戦乱の中で武田氏に敗れる運命をたどったといえます。
- 戦国時代
泰阜村は、武田氏が知久氏を滅ぼした際も、そこまで大規模な戦闘や荒廃が生じたわけではなく、むしろ南山地域を防衛するための組織を整えるなど、一定の秩序を保とうとした節があります。このような対応は、泰阜村における平穏の維持に貢献したと考えられます。
地域住民の生活を安定させることで、外部の影響を取り入れつつも、地域独自の文化や結束が保たれたと言えるでしょう。このような戦略があったからこそ、泰阜村は自然や伝統と共に成長していく地域としてのアイデンティティを築くことができたのだと思います。
また、泰阜村は自然豊かな山間部であったこともあり、こうした地理的条件が戦乱からの防護壁として作用した可能性があります。結果として、この地域は自然と共生し、ある程度の独立性と平穏を維持することができたと考えられます。
これは、泰阜村が歴史的にフラットな人間関係や内部資源の開拓に向けた外部受け入れの文化を築き上げる土壌となった一因とも言えます。
🎎 江戸時代
- 南部の「自然との共生文化」と北部の「開拓文化」が融合しました。
- 泰阜村独自のアイデンティティが形成されました。
🛖 泰阜村 ー 自然と共に生き、恵みを分かち合う村
泰阜村は、鎌倉時代から「異なる出自の人々を受け入れる文化」を育んできました。
その結果、村には「開かれた共同体意識」が根付き、協力と共生の精神が定着しました。
豊かな自然に囲まれたこの村には、戦乱を逃れた武士たちが安住の地を求めてたどり着きました。
南部は農耕を基盤とした「共生の文化」、北部は武士団による「開拓の文化」が根付き、
外からの移住者もこの地の暮らしに溶け込み、村の一員として受け入れられてきました。
泰阜村の独自の特性は、さまざまな地域背景や時代の変化を通じて形作られてきました。
泰阜村は、戦乱を逃れてきた人々を受け入れ、それぞれの文化や知恵を生かしながら発展してきました。
南部では「自然と共に生きる文化」が根付き、北部では「開拓と協力の精神」が培われました。
- 南部:「自然との共生」
南部(天竜川沿い)では、縄文時代から「自然と共に生きる文化」が根付いています。住民たちは自然の恵みを享受し、穏やかな生活を送る中で、環境と調和する暮らしを続けてきました。
- 北部・山間部:「共に築く」精神
一方、北部や南山の山間部では、異なる出自の人々が協力し、開拓を進めました。
「自然を切り開き、新たな生活基盤を築く」という共通の目的のもと、団結し助け合う精神が生まれました。この精神は、現在の村の共同体意識の礎となっています。 - 安土桃山から江戸時代へ:泰阜村の独自性の確立
安土桃山時代から江戸時代にかけて、南部の「自然との共生」と、北部・山間部の「共に築く精神」が融合。
村は豊かな自然資源を活かしつつ、外部の知恵を取り入れながら独自の文化を形成しました。この適応力こそが、泰阜村の持続的な発展の鍵となっています。
🛖 泰阜村の歴史にみる入村者の流れ
⏳ 先住民と天竜川流域の暮らし
- 縄文時代から、天竜川や山野の資源(漁労・樹実の採取・燃料)を活用し、南部を中心に定住していました。
🏯 鎌倉時代:武士団の進出
- 地頭・知久氏:泰阜村南部を統治し、農耕文化を支えた。
- 豊島氏(関東武士団):北部を開拓し、戦略拠点を形成。戦の影響が色濃く残る。
- この違いが、南部と北部の文化の違いを生む要因となった。
⚔ 南北朝時代:移住者の流入
- 鎌倉幕府滅亡後、多くの敗残武士が天竜川を遡り、定住。
- 吉沢郷・中島郡(南信地方)からの武士団が田本村・打沢村を開村。
⛩ 紀州熊野からの移住者
- 南北朝時代、紀州熊野から薬師如来を奉じた林氏一族が入村。
- 秘仏を祀り、自治精神が強い集落を形成。
🙏 『稲伏戸』封印された魂:薬師如来が語る故郷の記憶
稲伏戸に現存するこの紀州から持ち出された薬師如来は、紀州での生活や信仰の証であり、「魂の象徴」として秘仏となりました。
この一団にとって薬師如来は、単なる仏像ではなく、故郷の精神やアイデンティティを新たな地で守り続ける象徴だったと考えられます。つまり、「故郷を離れたけど、俺たちの魂はここにある。誰にも触れさせない。」ということであったのかもしれません。
熊野信仰は、自然や山岳信仰を基盤とし、「浄化」「再生」「救済」の象徴として多くの人々に崇拝されてきました。
そのため、熊野出身の人々が持つ信仰心も特別に深く、熊野での生活や信仰の象徴である薬師如来を新たな地に移し、その存在を隠すように大切に守ったというのは、自分たちの魂の核を新たな地で生き続けさせようとした決意の表れなのかもしれません。