🟫 長野|上田・真田 ― 段丘・谷・扇状地に集落が分かれ、街道が三方向へ延びた土地

真田では、山から下る複数の川が異なる地形をつくり、長・傍陽・本原には、それぞれの地形に沿って集落が形づくられてきました。

地域を通る道は、鳥居峠を越えて上州へ、地蔵峠を越えて松代へ、菅平を経て須坂方面へつながっていました。本原には真田氏館跡があり、周囲の山々にも複数の城跡が残っています。

ここでは、川がつくった地形と集落の違い、街道、館と山城、地区に残る祭りや祈りをたどりながら、真田という土地のしくみを見ていきます。

1|神川と支流がつくる段丘・谷・扇状地

真田地域には、四阿山を源とする神川と、周囲の山地から下る複数の川があります。神川は山間部から上田盆地側へ流れ、その途中で支流の水を集めていきます。

山から流れ下る川は、山地を削って谷をつくり、開けた場所へ出ると、運んできた土砂を積もらせて扇状地をつくりました。一方、川が流路を掘り下げると、それまで川沿いに広がっていた平坦な土地が一段高い場所に残り、河岸段丘となりました。

こうして真田には、神川沿いの河岸段丘、山へ入り込む谷、山麓に広がる扇状地という、異なる地形が形づくられました。

2|神川の河岸段丘に広がる長の集落

長地区では、神川沿いの河岸段丘に、四日市、横尾、戸沢、真田、横沢、大日向などの集落が連なっています。川沿いの低地より一段高い段丘面が、集落や田畑に使われてきました。

地区内には縄文時代から古代にかけての遺跡が分布し、館跡や城跡も残っています。神川沿いの段丘や、そこへ入り込む小さな谷の周辺は、古くから人びとの暮らしや活動の場となってきました。

3|洗馬川と傍陽川に沿って連なる傍陽の集落

傍陽では、洗馬川と傍陽川が流れ、川沿いに集落が連なっています。

二つの川が合流する付近には、川が運んだ土砂が積もってできた扇状地があります。山間の谷の中でも、こうした比較的開けた土地や斜面の裾が、集落や田畑として使われてきました。

4|大沢川の扇状地に広がる本原と真田氏館

本原では、烏帽子岳側の山麓から大沢川が流れ下り、神川側へ向かっています。山地から開けた場所へ出るところには扇状地が広がり、その上に本原の集落があります。

その一角には、真田氏の居館跡とされる真田氏館跡があります。現在も土塁や枡形などが残っています。

5|上州・松代・須坂へ延びる三つの街道

上州道は、上田側から真田地域を通り、鳥居峠を越えて上州へ通じました。長地区の横尾や大日向などには、街道に関わる集落や道筋が残っています。

横尾では、上州道と松代道が交わっていました。現在も松代道や善光寺道と呼ばれた道筋のほか、道しるべや市神など、街道が交わった場所の痕跡が残っています。

松代道は傍陽へ入り、地蔵峠を越えて松代へ続きました。洗馬川や傍陽川に沿って集落が連なる傍陽は、その街道筋にもあたります。

大笹街道は、菅平を経て須坂方面へ通じていました。菅平高原には現在も、街道沿いのシナノキ群が残っています。

6|真田氏館の周囲に残る複数の山城

真田氏館跡の北東には真田氏本城、東には天白城、神川を隔てた北側には横尾城、西側には砥石城など、複数の山城があります。

これらの城は、成り立ちも真田氏との関わり方も同じではありません。横尾城は、この地域に勢力をもった横尾氏が築いたとされ、のちに真田氏の支城として使われました。砥石城ももとは村上氏側の城でしたが、1551年に真田幸隆が攻略しています。

真田氏は上州道沿いへ勢力を広げる中で、新たに山城を築くだけでなく、すでにあった城も取り込みながら使いました。

7|長・傍陽・本原に受け継がれる祭りと祈り

真田地域では、長・傍陽・本原のそれぞれに、神社の祭礼や集落の行事が受け継がれています。

長地区の山家神社では、例大祭に大神楽が舞われます。集落から神社へ向かう道には提灯や幟が立ち、灯籠を掲げた行列が進み、境内で獅子舞が舞われます。

同じ長地区の戸沢には、米粉で野菜や動物などの形をつくった「ねじ」を藁馬に載せ、道祖神へ運ぶ「戸沢のねじ行事」が伝わっています。供えたねじを家々で交換し、無病息災を祈ります。

傍陽地区の上洗馬神社にも大神楽が伝わっています。例大祭では、横道公会堂から神社まで、笛や太鼓を鳴らしながら集落の道を行列します。横道には、村の辻にある十九夜様を祀り、安産を祈る十九夜講も残っています。

本原地区では、真田氏館跡に祀られた皇大神社の境内で三ツ頭獅子が舞われます。周辺の地区が役割を持ち回りながら、この獅子舞を伝えてきました。

8|真田という土地の働き

真田では、神川の河岸段丘、洗馬川・傍陽川の谷、大沢川の扇状地という異なる土地に、長・傍陽・本原の暮らしが形づくられてきました。地域を通る道は、鳥居峠を越えて上州へ、地蔵峠を越えて松代へ、菅平を経て須坂方面へつながっていました。

真田氏も、こうした土地と道の中で館や山城を使い、既存の城も取り込みながら勢力を広げました。一方、長・傍陽・本原には、それぞれの祭りや祈りが受け継がれています。

真田は、川がつくった異なる地形に複数の暮らしが育ち、それらが三方向へ延びる道によって周囲の地域とつながってきた土地です。

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