🟫長野|安曇野 ― 川の水を堰で田畑へ送り、湧水を暮らしに使ってきた土地

安曇野の西側には北アルプスの山々が連なり、その麓には複数の扇状地が広がっています。一方、明科・豊科の犀川沿いには、河岸段丘と川沿いの低地が続いています。
人びとは、川から引いた水を田畑へ送り、低地に湧き出す地下水も暮らしや生業に使ってきました。平地には街道が通り、西側には山越えの道が開かれ、明科では犀川の舟が人や物を運びました。
ここでは安曇野市域を中心に、山と川がつくった地形、水を引いて使う暮らし、人や物が行き来した道と川、集落に残る祈りや祭りをたどります。
1|北アルプスの川が、複数の扇状地をつくった
安曇野の西側には、燕岳、大天井岳、常念岳などの北アルプスの山々が連なっています。西側の山地を源とする中房川、烏川、黒沢川などの川が、山麓から平地へ下っています。
これらの川は、山地から砂や礫を運んできました。谷を抜けて山麓の平地へ出ると、その砂礫が広がって積もり、扇状地がつくられました。
複数の川によってつくられた扇状地は隣り合い、一部では重なっています。北アルプスの麓から東側へ広がるなだらかな平地は、こうした扇状地によって形づくられ、この土地の土台になっています。
2|水を得やすい山麓や川沿いに、集落が置かれた
安曇野で見つかっている縄文時代の遺跡の多くは、西側の山麓に分布しています。山麓では水を得やすく、周囲の山から木の実や動植物、道具に使う材料などを得ることができました。
一方、現在の市街地が広がる扇状地の中央部には、利水の技術が発達する以前、安定して水を得にくい場所もありました。人びとは扇状地の中でも、水を得られる場所を選んで集落を置いてきました。
弥生時代に稲作が広がると、河川から水を引ける場所にも水田が営まれ、集落が置かれるようになりました。穂高地域の矢原遺跡群では、弥生時代後期から平安時代にかけての集落跡が見つかっており、烏川の水を管理し、導水による水田開発に関わった集落だった可能性が示されています。
3|川の水を、縦堰と横堰で田畑へ送った
川から離れた土地にも水を送るため、安曇野の各地には堰と呼ばれる水路がつくられました。
中世には、河川の上流側から水を取り入れ、等高線を横切るように低い側へ流す縦堰が主に使われました。室町時代から戦国時代にかけて開削された温堰は、梓川の上流側から水を取り入れ、現在の三郷地域などへ水を送りました。人びとは水を共同で使うため、水路の利用や管理の仕組みも整えていきました。
江戸時代になると、等高線に沿って水を送る横堰がつくられるようになりました。1654年に開削された矢原堰は犀川から水を取り入れて穂高側へ送り、1685年の勘左衛門堰では、奈良井川から取った水を梓川の向こうへ通し、扇状地の中央近くまで届けました。
1816年には、水不足に悩んでいた10村が共同で拾ケ堰を開削しました。奈良井川から取り入れた水を梓川の向こうへ通し、等高線にほぼ沿って約15キロメートル先の烏川まで送りました。取水口から終点までの高低差は、一説では約5メートルとされています。
こうして堰が延びるにつれ、川筋から離れた土地にも水が届き、耕作できる土地が広がりました。その周囲には、新田集落もつくられていきました。
4|砂礫へ浸み込んだ水が、低地で湧き出した
安曇野の扇状地には、川が運んだ砂や礫が厚く堆積しています。山から下ってきた水の一部は、こうした砂礫の間へ浸み込み、地下水となって流れます。
中房川や烏川の扇状地で地下へ浸み込んだ水は、高瀬川や犀川沿いに浸透した地下水とともに、穂高東部などの低地で湧き出します。
万水川、蓼川、欠川が集まる三角島周辺にも豊富な湧水があります。年間を通じて水温の変化が比較的小さい湧水を利用して、平地にはわさび田が広がり、ニジマスなどの養殖も行われてきました。
5|大きな川が明科側へ集まり、犀川が山間部へ出る
安曇野の北東側にある明科では、大きな川が集まります。南から流れてくる犀川に、北西から高瀬川、西から穂高川が合流します。さらに東側の山地からも、会田川や潮沢川などが流れ込みます。
この一帯は、松本盆地の中でも低い場所にあります。犀川は高瀬川や穂高川などを合わせ、明科から生坂方面の山間部へ流れていきます。安曇野市内で最も低い場所も、明科南陸郷の北端にあります。
安曇野西側の複数の扇状地とは異なり、明科・豊科の犀川沿いには河岸段丘が発達しています。高いところでは、川沿いの低地との高低差が約20メートルに達します。
大きな川が集まる低地では、増水による被害も繰り返されてきました。1965年には犀川・高瀬川が氾濫し、明科下押野で犀川の堤防が決壊しました。住民や消防団員が水防作業にあたり、その後も堤防や水防の対応が重ねられてきました。
2023年には、明科地域の犀川沿いで起こる内水氾濫に備え、排水ポンプ車や可搬式排水ポンプが導入されました。
6|街道、山越えの道、犀川の舟を使った
江戸時代の安曇野では、松本と糸魚川方面を結ぶ千国街道が平地を南北に通っていました。街道沿いには、豊科の成相新田宿と穂高の保高宿が置かれました。
保高宿では、日本海側から塩や海産物が運ばれ、内陸側からは麻、木綿、木炭などが運ばれました。宿場では、街道を行き交う人びとが休み、荷物を運ぶ人馬が行き来しました。
西側の山地には、江戸時代後期に飛州新道も開かれました。三郷小倉から山を越えて高山方面へ通じ、物資を運ぶ交易の道として使われました。
明科側では、犀川そのものも交通に使われました。1832年に犀川通船が始まり、川沿いでは舟によって人や物が運ばれました。明科木戸には通船の継立所や旅館もあり、川を行き来する舟と陸上の交通をつなぐ場所になりました。
7|村の辻に道祖神が立ち、各地で船型山車を曳いた
安曇野では、集落の中心や道の辻、三叉路などに多くの道祖神が立っています。村の守り神として五穀豊穣や無病息災、子孫繁栄などが願われ、村境では悪霊や病が入るのを防ぐ神、道では旅人を守る神ともされてきました。安曇野市内には、400体以上の道祖神があるとされています。
こうした石の神が各地に残る一方、安曇平では、船の形をした山車を曳く祭りも伝えられてきました。現在の安曇野市内でも、穂高神社をはじめ、三郷、豊科、堀金、明科の各地に、お船を使う祭りが残っています。
安曇平まで範囲を広げると、お船祭りは現在の安曇野市だけでなく、松本市や池田町にも分布しています。それぞれの地区の祭礼として行われ、船の形や飾り方、巡行の仕方にも違いがあります。
穂高神社の御船祭りでは、大小5艘のお船が各町内を回って神社へ集まり、境内では2艘の大人船がぶつかり合います。ほかの地区でも、船型山車が町内を巡行し、神社へ向かう例があります。
海から遠い安曇平に、なぜ船の形をした山車がこれほど広く伝わっているのでしょうか。その由来については安曇氏との関係を見る説もありますが、ここでは答えを一つに決めず、安曇平の各地に船型山車の祭りが残っていることを、土地に残る手がかりとして見ておきます。
8|安曇野という土地の働き
安曇野では、北アルプスから下る川が西側に複数の扇状地をつくり、その砂礫へ浸み込んだ水は低地で湧き出します。大きな川は明科側へ集まり、犀川が山間部へ流れていきます。
人びとは、この地形の中で川の水を堰へ取り入れて田畑へ送り、湧水をわさび栽培や養殖などに使ってきました。西側の扇状地から明科・豊科の河岸段丘まで、水と地形の違いに応じて田畑や集落が広がり、道や水路が通されてきました。その各地には、道祖神や船型山車の祭りも受け継がれています。






























