🟫 佐久穂|高野宿 ― 宿場・陣屋・市と商いが、時代を変えて重なった町場

佐久穂町高野宿の旧道沿いの町並みと山へ続く道筋

佐久穂・高野宿の要点佐久穂町の高野町は、佐久甲州街道の宿場として発達した町場です。宿場には問屋や旅籠が置かれ、人や荷物を受け入れて次の宿へ送り継いできました。江戸時代には、佐久領の管理にあたる陣屋も置かれました。高野町には宿場、陣屋、市、店や工房が重なり、交通、行政、商いに関わる異なる用務が集まったのです。街道沿いには、間口から奥へ細長い敷地が並びました。通り側には人や品を迎える場所があり、その奥に住まい、作業場、蔵、庭、農地などが続いていました。宿場や陣屋としての役目を終えた後も高野町には旧栄村役場、商店、食堂、医者、農協、郵便局などが置かれました。栄座には芝居や映画を見る人びとが集まり、祇園祭では四つの町がそれぞれの屋台と囃子を受け継いできました。高野町の特徴は、宿場や行政の拠点、市や商いの場、暮らしを支える施設、文化や祭りなど、時代ごとに異なる役割が、同じ町場に重なってきたことにあります。

1|二つの道が接する場所に開かれた町場

高野町は、千曲川の西側に延びる旧道沿いにあります。山梨県の韮崎方面と佐久の岩村田方面を結んだ佐久甲州街道の宿場として、高野町宿が置かれました。

高野町では、佐久甲州街道と、武州方面へ向かう道が接していました。街道を南北へ進む人や荷物だけでなく、東側の山地や峠へ向かう移動も、この付近で道を分けました。

現在の旧道沿いには、南北におよそ九百メートル続く集落があります。家々は街道へ面して集まり、その背後には農地や用水路が置かれてきました。

高野町は、街道を行き交う人や物が集まり、宿場、商い、行政、暮らしの機能が重なる場所でした。道沿いには家々や宿、陣屋、店、工房が並び、市も開かれ、町場としてのまとまりが形づくられていきました。

2|高野町宿と、佐久領を管理した陣屋

佐久甲州街道は、中山道の岩村田と甲州街道の韮崎を結ぶ脇往還でした。街道には複数の宿が置かれ、高野町宿も人馬と荷物の継ぎ立てを担いました。

宿場の問屋では、街道を進んできた荷物を受け取り、次の区間を担う馬や人手を手配しました。旅籠や茶屋では、旅人や商人が休息し、宿泊しました。

承応二年(一六五三)には、甲府城主徳川綱重が佐久領を管理するため、高野町に陣屋を置きました。陣屋は村の中央に近い佐久甲州街道沿いにあり、年貢の徴収などの行政用務に加え、司法に関わる施設も備えていました。

陣屋は、領地の変更に伴って一度廃止され、のちに再び設置されました。そのため、同じ行政制度が江戸時代を通じて途切れなく続いたわけではありません。それでも高野町が、一定の時期に佐久領の行政用務を受ける場所だったことは確認できます。

宿場と陣屋は、それぞれ異なる役割を担っていました。宿場は街道を行き交う人や荷物を次の宿へ送り継ぎ、陣屋は領地の管理に関わる行政事務を担いました。交通と行政という異なる機能が、同じ町場に重なっていたのです。

3|街道を運ばれた品々と、高野町の市・店・工房

佐久甲州街道では、茶、綿や織物、煙草、塩、油、魚、砂糖などが佐久方面へ運ばれました。反対に、穀物、紙、楮、麻、布、板木、下駄、生薬、そば粉、蚕籠、繭、材木などが甲州・駿河方面へ送られました。

これらの品すべてが高野町で売買・加工されたと断定することはできません。ただし、高野町宿が、この街道に置かれた継ぎ立ての宿の一つであり、人や荷物の移動を次の区間へつないだことは確認できます。

高野町では市も行われました。街道沿いには、旅人や行商人に関わる施設だけでなく、地域で暮らす人びとが利用する店や工房も置かれました。

大工、鍛冶、桶、仕立て、指物などの仕事があり、後の記憶には、下駄屋、鍛冶屋、屋根屋、酢屋などの屋号も残されています。麹をつくる家では、地域で自家製の味噌や醤油を仕込むための麹がつくられました。

ここから確認できるのは、高野町が街道上の旅人だけを相手にした宿場ではなく、市、店、職人の仕事を持ち、地域の日常にも関わる町場だったことです。

4|細長い敷地に並ぶ、店・仕事場・住まい

高野町の旧道沿いには、街道に面した間口から奥へ細長く延びる敷地が多く見られます。家々は通りに入口を向け、敷地の奥行きを使いながら、仕事と暮らしの場を形づくってきました。

街道に面した部分には、客や品物を迎える店先など、商いの場が設けられました。その奥には住まいや作業場、蔵、庭などが続き、敷地の背後に農地を持つ家もありました。

高野町の家々では、商いと仕事、暮らしが、一つの細長い敷地の中に組み込まれていました。街道側の店先から奥へ、仕事場や住まい、品物を保管する蔵、庭などが連なっていたのです。

ただし、今に残るすべての家が、宿場の時代から同じ間取りや使われ方をしていたわけではありません。建て替えや改築、敷地の分割も進んでいます。現在の町並みから読み取れるのは、街道に面して奥へ細長く延びる敷地と、その中に商いや仕事、暮らしの場を連ねてきた土地の利用の痕跡です。

5|宿場と陣屋の後、高野町に重なった暮らしの施設

近代になると、宿場の継ぎ立てと江戸時代の陣屋は役割を終えました。その後、高野町には、新しい時代の暮らしを支える施設が置かれていきました。

陣屋跡にある柳翠区民センターの場所には、かつて栄村役場が置かれていました。高野町には、生活用品を扱う商店や食堂、医療機関、農協、郵便局なども集まり、旧栄村の暮らしを支える町場となりました。

これらの施設は、宿場や陣屋とは制度も目的も異なります。それでも高野町は、交通や行政、買い物、医療、通信、農業など、時代ごとに必要とされたさまざまな用事を支える場所となってきました。

高野町の特徴は、宿場や陣屋、村役場、商店、医療機関、農協、郵便局など、時代ごとに異なる役割を持つ施設が、同じ町場に置かれてきたことにあります。

6|栄座と祇園祭に人が集まった町場

高野町の桜町には、明治三十八年(一九〇五)、回り舞台と桝席を備えた常設劇場「栄座」が開設されました。

栄座では、歌舞伎や地芝居が演じられ、大正時代からは活動写真や無声映画も上映されました。戦後しばらくは全国を巡る一座も訪れ、町の人びとは重箱と座布団を持って栄座へ出かけたと語り継がれています。

ここから確認できるのは、栄座が高野町の人びとにとって、芝居や映画を見る具体的な場所だったことです。

また、高野町の祇園祭は、諏訪社に祀られる須佐之男命の祭りとして、江戸時代から受け継がれてきました。柳町、翠町、相生町、東町の四町が、それぞれの屋台と囃子を担っています。

祭りの日には、四つの屋台が町内を練り歩き、太鼓、笛、三味線による囃子を奏でます。若い衆は先輩から囃子を教わり、それぞれの町の形式を受け継いできました。

祇園祭では、四町がそれぞれ固有の屋台と囃子を受け継ぎながら、同じ町場の祭りを担ってきました。

7|高野宿という町場に重なってきた働き

高野町には、佐久甲州街道の宿場や佐久領を管理する陣屋が設けられ、市が開かれ、店や工房が営まれました。街道側の店先から敷地の奥へ、仕事場、住まい、蔵などが続いていました。

宿場と陣屋が役割を終えた後には、栄村役場、商店、食堂、医療機関、農協、郵便局など、近代以降の暮らしを支える施設が置かれました。栄座には芝居や映画を楽しむ人びとが集まり、祇園祭では四町がそれぞれの屋台と囃子を受け継いできました。

宿場や陣屋が役割を終えた後には、村役場や商店、医療機関、農協、郵便局、劇場など、その時代の暮らしに必要な場所が、高野町に置かれていきました。

これらは、最初から一つの計画で配置されたものではありません。それでも、交通、行政、商い、生活、文化、祭りに関わる場所が、同じ町場に時代を変えて重なってきたことは確認できます。

高野宿は、周辺のすべてを一つの仕組みで結んだ町場というより、交通、行政、商い、生活、文化、祭りに関わる場所が、時代を変えながら積み重なった町場として読むことができます。

主な確認資料
▶️ この土地を、現代の居場所から考える仕事や制度が変わった後も、人びとは、どのように同じ場所で暮らしを続けてきたのでしょうか。高野町では、宿場と陣屋が役割を終えた後も、役場、商店、医療機関、郵便局などの施設や、劇場、祭りといった暮らしの営みが、同じ町場に重ねられてきました。
かつての役割をそのまま残すのではなく、町場に残る建物や道、商いの営み、土地の記憶を、現在の暮らしに合う形で生かしていくことも、土地との関係を結び直す方法の一つです。
→ AI時代の居場所を考える

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