日本国家OS【入口版】— 現代の問い〈2️⃣根づき〉|なぜ、人を入れても、地域や職場に根づかないのか
— 迎え入れ、根づかせる力が弱くなった社会で —
人手不足を解消しようと募集をかけ、制度を整えて人を迎え入れる。
それなのに、なぜか人が根づかずに離れてしまう。
教える側はさらに疲弊し、新しく入った人は居場所を見つけられないまま去っていく。
地域でも職場でも、いまそんな悪循環が起きています。
これは決して「最近の人はすぐ辞める」といった個人の問題ではありません。
むしろ、受け入れる側の地域や組織にも問題があるのかもしれません。
人を迎え入れ、役割を手渡し、関係の中へ馴染ませていく力が、少しずつ弱まっている。
そのことの表れとして、考えてみる必要があります。
1|人手不足なのに、なぜ定着しないのか
人が足りないなら、採用すればよい。そう考えて、多くの現場では募集条件を改善し、制度やマニュアルを整えることで定着を図ろうとしてきました。
にもかかわらず、人が続かない。ようやく入っても居場所を見つけられず、教える側だけが疲労していく。これは単なる「採用手法」の問題ではありません。制度だけでは補えない「迎え入れる作法」が、現場から失われているのかもしれません。
人を入れても根づかないから、また人が足りなくなる。人手不足と定着不全という終わりのない悪循環が、いまあらゆる地域や組織の体力を奪っています。
2|「根づく」とは、ただ辞めないことではない
人が根づくとは、単に仕事を辞めないことではありません。その場に自分の役割があり、必要とされていると感じられ、関係の中で生きている実感を持てることです。
仕事を覚えることだけでは、人はなかなか残りません。何を期待されているのか。困ったとき誰に聞けばよいのか。ここで自分はいてよいのか。そうした感覚が少しずつ育ってはじめて、人はその場に馴染んでいきます。
つまり「定着する」とは、本人の能力や根性だけの問題ではありません。受け入れる側が、その人を「関係の中へ迎え入れる」ことができているかどうかの問題でもあります。
3|日本では、人は関係の中で根づいてきた
日本では本来、人が新しい環境に入るとき、単独の「個」としてただ置かれるだけではありませんでした。誰かに取り次がれ、世話を焼かれ、関係の中で自分の役割を見つけながら、その場に根づいてきたのです。
地域でも職場でも、単に人を「配置」して終わりではありませんでした。その人の持ち味や不器用さを見て、誰と組ませるかを考え、少しずつ場に馴染ませていく。そうした働きかけが、見えないところで積み重ねられていました。
これは単なる世話焼きではなく、人を孤立させず、その土地や組織の文脈へ結びつけるための大切な支えでした。新しく来た人を、単なる労働力としてではなく、生きた関係の中へ迎え入れるための「橋」だったのです。
人が本当に定着するには、ただ業務をこなすだけでなく、「ここで自分はどう生きればよいのか」という意味を、少しずつ受け取っていく過程が欠かせません。それは、制度から一方的に与えられるものではなく、周囲との関係の中で育まれるものなのです。
4|世話を焼く人は、なぜ疎まれるのか
ところが現代では、そうした「世話を焼く人」「間を取り持つ人」の存在が、かえって疎まれる傾向にあります。
世話を焼けば「お節介」と言われ、間に入れば「担当外のことに口を出している」と見なされる。良かれと思って人と人をつなごうとする人ほど、息苦しさを感じ、動きにくくなってしまいました。
背景にあるのは、「自己責任」と「業務の切り分け」という合理性です。「それは個人の問題だ」「自分の業務範囲ではない」「決められたことだけをやればよい」。こうした割り切りは、一見すると合理的です。確かに、責任の所在がはっきりし、余計な負担も減るように見えます。
けれど、そうした“割り切り”が進むほど、人を場に馴染ませるための〈余白〉や〈間(ま)〉は潰されていきます。日本人が培ってきた「調える働き」が機能しにくくなり、結果として、新しく入った人は「業務」だけを渡され、関係の中へ入っていくための大切な「橋」を失ってしまうのです。
5|担当だけで割り切ると、人は場に根づきにくい
西洋近代型の組織では、人を職務や能力ごとに切り出し、「役割」として配置する考え方が発達しました。自然や社会を外側から管理する対象として捉え、人間側も分業化することで、効率よく力を発揮してきたのです。
たとえば、大規模な開発現場を想像すると分かりやすいかもしれません。重機を操作する人、土砂を運ぶ人、道を誘導する人。それぞれの担当が明確に分かれているほど、作業は計画通りに進みます。
これは決して悪いことではありません。大きな物事を進めるには、分業や責任範囲の明確化が必要です。対象を管理し、合理的にコントロールするには、その方が適しているからです。
けれど、日本の地域や暮らしは、もともとそのようにきれいに切り分けられる場ではありませんでした。山、川、雨、土砂、獣、そして季節の変化。予測しきれない自然が暮らしの中に入り込み、状況はその場その場で変わっていきます。
そこでは、「自分はここの担当だから、他は知らない」という態度だけでは場が保てません。自分の持ち場を守りながらも、隣の動きを感じ取り、足りないところを補い合い、場全体が崩れないように支えることが求められました。
単純な分業モデルを野球にたとえるなら、一塁手は一塁だけを守ればよい、という考え方になります。けれど実際の場は、それだけでは守れません。
打球の流れや味方の動きを見ながら、互いにカバーし、全体を崩さないように動く必要があります。
日本の地域や職場で重んじられてきたのは、この「持ち場を越えて、場全体を支える感覚」でした。世話を焼く人、間に入る人、周囲を見てつなぐ人は、ただのお節介な役回りではなく、変わりゆく場の〈間(ま)〉を調え、そこに人を根づかせるための大切な役割を担っていたのです。
6|支え合いが弱まると、間に入る人が浮いてしまう
いまの日本では、自分の持ち場を越えて動くことが、リスクになりつつあります。余計なお節介だと思われたり、面倒な役割を押しつけられたりすることを恐れて、人は自分の範囲の外へ出にくくなっています。
かつてなら、あえて間に入って世話を焼く人は「面倒見のよい人」「情に厚い人」として、地域や職場の中で一定の意味を持っていました。けれど、人と人とのつながりが薄れた現代では、そうした人を周囲が支える土壌が弱くなっています。
その結果、間に入る人は、「浮いた存在」のように見られやすくなります。場を調えようとしているのに、かえって損をする。人を支えようとしているのに、自分のほうが疲弊していく。そうしたことが、現場のあちこちで起きています。
一方で、日本の組織が、完全に職務と責任を切り分ける西洋型へ移行しきれたわけでもありません。現場の多くは今もなお、暗黙の空気や人間関係、誰かの気配りという見えない働きに支えられています。
つまり、昔ながらの支え合いは弱くなったのに、職務だけで割り切る仕組みも徹底されていない。この中途半端な状態の中で、間に入り、人を支え、場を調えようとする人だけが割を食いやすくなっています。ここに、人が根づきにくくなった大きな理由があります。
7|制度やマニュアルだけでは、担い手は育たない
制度やマニュアルは必要です。けれど、それだけで担い手が育つわけではありません。
人の成長には「手順」だけでなく、マニュアルには書けない「空気」や「文脈」が必要です。「どこで迷いやすいか」「何が重視されているか」「失敗してもやり直せるか」。こうした言葉にしづらい要素を周囲との関係の中で肌で感じ、自分の中で意味を見出してこそ、人は自ら動けるように育ちます。
そこを受け渡すのは、紙の仕組みだけでは足りません。少し先を歩いている人が声をかけ、間に入り、役割を渡していく。そうした働きが弱れば、制度を整えるほど、かえって現場が回らなくなることさえあります。
「教える仕組み」は増えても、「育つ土壌」が痩せていれば、担い手は増えません。いま起きているのは、そのずれです。
8|必要なのは、人を入れる力ではなく迎え入れる作法
人を「入れる」ことはできます。募集を出し、制度を整え、担当として配置することはできます。けれど、それだけでは人は根づきません。
本当に必要なのは、その人を受け止め、役割を手渡し、周囲との関係の中へつないでいく力です。言い換えれば、採用や配置という「手続き」の前後にあるはずの「迎え入れる作法」です。
いまの日本社会では、職務としては割り切ろうとしながらも、現場はなお空気や関係で動いています。そのあいだをつなぐ人がいなくなれば、新しく来た人は、どこに自分の居場所を置けばよいのか分からなくなります。
人手不足の問題の奥には、単に人が足りないという問題だけでなく、人を迎え入れ、その人が「ここで自分は必要とされている」と実感できる場をつくれなくなっている、という問題があります。
村の履歴書では、人が地域や職場に根づかない問題を、本人の適性や受け入れ制度だけの問題としてではなく、土地・人・役割、そして人を受け止める場をつないでいた支えが弱まった結果として見ています。
人が根づくには、制度上そこに所属するだけでなく、その土地や場の中で、自分の役割を少しずつ持てることが必要なのだと思います。
人が足りないから、人を入れる。その発想から一歩進み、人を場に迎え入れ、役割を渡し、関係の中で根づかせることができるかどうか。いま問われているのは、そこなのだと思います。
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