海から遠い安曇平に、なぜ「船」の祭りが残ったのか

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― 古くからの広域交流と、安曇氏の「海の記憶」が重なった土地として考える ―

海のない長野県、その中でも北アルプスの麓に広がる安曇平に、なぜ「船」の形をした山車の祭りが残っているのでしょうか。

船型の山車が伝わるのは穂高神社だけではありません。安曇野市内をはじめ、松本市や池田町を含む安曇平の各地に「お船祭り」が伝えられています。

ここから考えたいのが、古代の海人系氏族・阿曇氏との関係です。

この記事では、安曇氏がいつ安曇野へ関わったのかという問題と、それ以前からこの土地にどのような広域交流があったのかという問題を分けながら、山国に残る「船」の記憶を考えてみます。

1|「船」は、穂高神社だけに残っているわけではない

国の文化財記録では「安曇平のお船祭り」として、各地区で行われる祭礼がまとめて扱われています。船型の曳山には軍記物などを題材とした作り物が載せられ、地域によっては二基のお船をぶつけ合う祭礼もあります。

安曇野市内でも、穂高神社のほか、住吉神社、熊野神社、重柳八幡宮、潮神明宮などに、それぞれ形の異なる船の祭りが伝わっています。

まず押さえておきたいのは、海から遠い安曇平の広い範囲に、船を祭りへ持ち出す文化が残っているということです。

2|阿曇氏は、海と広域社会をつないだ氏族だった

阿曇氏は、古代の海人を率いた氏族として知られています。各地の海人をまとめ、海産物を集めて朝廷へ納め、海上移動や半島との往来にも関わりました。律令制のもとでは、高橋氏と並んで内膳司の奉膳を担い、天皇の食膳にも関わっています。

ここから見えてくるのは、漁業だけではなく、海を通して人、物、資源を広域的につなぐ働きです。

海の状態を読む
→ 人や物を運ぶ
→ 海産物を集める
→ 離れた地域をつなぐ
→ 朝廷や広域社会へ届ける

3|白村江の敗戦だけでは、安曇野への進出を説明できない

663年の白村江の戦いでは、阿曇比羅夫が百済救援軍に参加した人物として伝えられています。そこから、敗戦によって阿曇氏が海上での勢力を失い、信濃へ移ったという説明も語られてきました。

しかし、阿曇氏の中央での活動はその後も続きます。684年には宿禰姓を与えられ、律令制のもとでも高橋氏とともに内膳司の奉膳を担いました。8世紀末には高橋氏との席次争いが起きています。

白村江で敗れる
→ 海での力を失う
→ 安曇野へ追われる

という一直線だけでは、安曇氏と信濃との関係を十分に説明できません。

中央で活動していた時期から信濃との接点が生まれていたのか。後に中央での政治的な位置が変わり、すでに築かれていた地方側の関係の比重が高まったのか。安曇野への関わり方そのものを、改めて検証する必要があります。

4|安曇氏が現れる前から、この土地は遠くとつながっていた

もう一つ分けて考えたいのが、安曇氏が安曇野へ関わった時期と、この土地に広域交流が成立した時期です。

安曇野周辺には、安曇氏よりはるか以前から地域を越えた物資の移動がありました。三郷地域の縄文遺跡から出土した黒曜石には、霧ヶ峰・諏訪側の産地に由来すると推定されるものがあり、姫川流域の翡翠を使った大珠も確認されています。

諏訪・霧ヶ峰方面から黒曜石が入る

姫川流域から翡翠が入る

安曇平には、氏族以前から地域を越える交流があった

すると、安曇氏が広域交流を一からつくったというより、すでに遠くとつながっていた土地へ、後の時代に阿曇氏の活動や祭祀が重なったという見方も可能になります。

5|安曇野は、水と道が集まり、外へひらく土地だった

安曇野の西側には北アルプスが連なり、山から下る水が複数の扇状地をつくっています。水は扇状地へ広がり、地下へ浸み込み、低い土地では湧水として再び現れます。人びとは川から堰を引き、その水を田畑へ送ってきました。

人や物の移動では、北に大町・姫川方面、東に犀川、南に松本平があり、周囲の山地を越える道もあります。後の時代には千国道や犀川通船が、日本海側や周辺地域との往来を支えました。

時代ごとの交通路は分けて考える必要がありますが、安曇野が水が集まり、人や物が複数方向へ動く条件を持つ土地であったことは、この地域を考える重要な手がかりです。

6|その土地へ、阿曇氏の「つなぐ働き」が重なった可能性

ここで、安曇野という土地と、阿曇氏が海上世界で担った働きが重なります。

阿曇氏は、人や物を集め、運び、離れた地域を結び、広域社会へ届けてきました。すでに遠隔交流を持ち、水と道が複数方向へひらく安曇平は、そうした「つなぐ働き」が新しい形で生かされ得る土地だったのかもしれません。

海上で人と物をつなぐ

広域交通・貢納・祭祀に関わる

すでに交流のある内陸の土地へ関係を広げる

その土地の水・道・暮らしの中で、新しい位置を持つ

ここで考えているのは、海上交通がそのまま河川交通へ移されたということではありません。海で培われた広域接続の働きが、内陸の土地条件に応じた形で置き直された可能性です。

7|穂高神社と「船」は、海の記憶を土地へ位置づけたのか

安曇野には、その後も「海」を思わせる記憶が残ります。

穂高神社では穂高見命とともに海神・綿津見命が祀られ、若宮には阿曇比羅夫が祀られています。そして秋には、大きな船型山車が町を進みます。

御船祭りについては、阿曇比羅夫の白村江での戦死を追悼して始まったとする説も紹介されています。一方、確認できる古い記録は江戸時代中ごろまでで、祭りの起源そのものを白村江へ直接結びつけるには、なお検証が必要です。

船型山車を一度の氏族移動の証拠とするより、この土地に重なった海との関係や氏族の記憶を、祭祀の中で繰り返し共有してきた痕跡として見る方が、現在確認できる材料には合っています。

8|氏族が土地をつくったのか、土地の回路に氏族が重なったのか

この考察で最も大きく見方が変わったのは、ここです。

最初は、「海の民・安曇氏は、なぜ山国へ移ったのか」と考えていました。しかし土地をたどると、安曇氏が現れるはるか以前から、安曇平には黒曜石や翡翠を介した遠隔交流がありました。

すると問いは、

安曇氏が、なぜ安曇野へ移ったのか
から、
もともと広域交流を持っていたこの土地に、阿曇氏の働きと記憶が、いつ、どのように重なったのか

へ変わります。

この見方なら、安曇氏以前の縄文交流、古代の阿曇氏、穂高神社、安曇平各地のお船祭りを、一つの氏族移動の物語へまとめず、それぞれ異なる時代の層として重ねて見ることができます。

土地には先に回路があり、その時代ごとに新しい担い手が加わる。担い手の政治的な位置が変わった後も、その働きや記憶の一部が、地名、神社、祭りとして土地に残る。安曇平の「船」は、その長い重なりを考える手がかりなのかもしれません。

9|現段階で、事実と仮説を分けておく

最後に、この考察で確認できることと、今後さらに検証する部分を分けておきます。

現在、確認できること・安曇平の複数地域に船型山車の祭礼が伝わっている
・阿曇氏は海人を率い、海産物の貢納や天皇の食膳に関わった
・白村江後も阿曇氏は中央で活動し、律令期には内膳司の奉膳を担った
・安曇野周辺には、阿曇氏以前から黒曜石や翡翠を介した遠隔交流があった
・穂高神社と阿曇氏・海神との関係が伝承・祭祀の中に残っている
今後、検証する仮説・阿曇氏が安曇野へ関わり始めた具体的な時期と経路
・阿曇氏の中央での活動と信濃側の拠点形成が並行していたのか
・小県郡の「海部郷」と阿曇氏との関係
・日本海―姫川―安曇野―諏訪方面を古代の具体的な交通路としてどこまで復元できるか
・有明山や天岩戸伝説と阿曇氏との関係
・安曇平のお船祭りが、どの時代にどのように現在の形へ形成されたのか
この考察を、さらに深く読む
安曇野という土地そのものについては、北アルプスから下る水、扇状地、堰、湧水、犀川、人や物の往来という具体から読み直しています。

調査メモ
主な参考資料
・文化庁「国指定文化財等データベース|安曇平のお船祭り」
・安曇野市「穂高神社のお船祭り」
・安曇野市「安曇野のお船祭り」関連資料
・『世界大百科事典』『日本大百科全書』「阿曇氏」
・安曇野市・三郷地域の縄文遺跡、黒曜石・翡翠に関する資料