なぜ日本人は、国や行政に支えを求めながら、強い権力を望まないのか
— 制度と暮らしの現場のあいだにある感覚 —
日本では、国家や行政に、安心して暮らすための支えを求める感覚があります。
災害が起きたとき。暮らしが不安定になったとき。制度の支えが必要になったとき。
多くの人は、国や行政に一定の役割を期待します。
世界価値観調査をもとにした電通総研・同志社大学の分析では、日本は「国民皆が安心して暮らせるよう国はもっと責任を持つべき」という項目で、77か国中5位とされています。
一方で、「権威や権力がより尊重される」ことを良いこととする回答は1.9%で、77か国中最下位とされています。
これは、少し不思議なねじれです。
国家には支えてほしい。けれど、強い権力が前面に出ることは望まない。
国や行政には安心した暮らしを求める。けれど、上から一方的に決められることには抵抗がある。
この感覚は、単なる政治的な好みだけではなく、日本社会にある「国や行政」と「現場」の距離感とも関わっているのかもしれません。
1|国や行政は必要だが、強すぎる権力を望まない
日本でも、国や行政の役割は大切だと考えられています。
むしろ、災害や危機のときには、全体を見て調整する力が求められます。地域だけでは抱えきれない問題を支える制度も必要です。国や行政に期待が向かうのは、その意味では自然なことです。
ただし、その力が強くなりすぎ、土地ごとの暮らしや現場の理を押し潰すものになると、そこには違和感が生まれます。
国家には安心を求める。けれど、一つの権力が強く固まり、上から一律に現場を動かそうとすることには抵抗がある。
これは、単に権力が嫌だということではなく、「国や行政は必要だが、暮らしの現場を一方的に動かされたくない」という感覚なのだと思います。
2|中央政府と現場のあいだにある距離感
現代の制度は、多くの場合、中央政府や行政機関によって設計されています。
法律、補助金、福祉、災害対応、教育、地域政策。どれも、国全体の公平性や安定を保つためには必要な仕組みです。
けれど、制度をつくる側から見える現場と、実際に暮らしが営まれている現場には、どうしても距離があります。
これは日本だけの問題ではありませんが、特に日本の場合、地域ごとに地形も違います。人間関係も違います。仕事の成り立ちも違います。人びとのつながりの厚みも違います。祭りや神社や家のつながりも違います。
その違いを見ずに、制度だけで一律に動かそうとすると、制度は正しくても、現場ではうまく噛み合わないことがあります。
3|必要なのは、支配する強い力ではなく、拠り所になる中心軸
日本人が求めているのは、強く支配する権力ではなく、全体が崩れないための拠り所になる中心軸なのかもしれません。
ここでいう中心軸とは、必ずしも現代の政府そのものを指すわけではありません。社会全体がばらばらにならないための、支えや参照軸のようなものです。
日本列島には、土地ごとに異なる地形があり、暮らしがあり、共同体があり、神社や祭りのかたちがあります。だからこそ、すべてを一つの色に塗りつぶすような強い力ではなく、それぞれの違いを残したまま全体を結ぶ軸が必要だったのではないでしょうか。
中心の力が強くなりすぎれば、土地ごとの理や現場の秩序を押し潰してしまう。けれど、中心の軸がまったくなければ、多様な土地や暮らしはばらばらになり、全体としてのまとまりを保ちにくくなります。
そのあいだで、中心はトップダウンで強権を発動する権力としてではなく、全体を調え、結び直す参照軸として働く。どこか一方に強く傾くのではなく、周囲の力を受け止めながら、全体の均衡を保つための結節点になる。
日本社会には、こうした「強く支配する中心」ではなく、「全体を崩れないように支える中心」を求める感覚が残っているように見えます。
ただし、この感覚には危うさもあります。
災害や危機の場面では、個人がばらばらに動くよりも、共同体として動くことが合理的な場合があります。けれど、その「全体のため」という感覚が国家によって強く動員されると、個人が全体を守るための部品のように扱われる危険も生まれます。だからこそ、日本社会では、支える中心は必要でありながら、それが強い権力として前面に出ることへの警戒感も残っているのだと思います。
4|制度だけでは、現場は動かない
この感覚は、制度と現場が噛み合わない問題ともつながっています。
制度は必要です。法律も、補助金も、福祉も、災害対応も、教育や地域政策も、社会全体を支えるためには欠かせません。
けれど、制度があるだけで、現場がそのまま動くわけではありません。
現場には、その土地、その組織、その場ごとの関係や順序や空気があります。人びとの暮らし方も、仕事の成り立ちも、共同体の厚みも、それぞれ違います。
そこを見ずに、制度をつくる側から一律に動かそうとすると、制度は正しくても、現場ではうまく噛み合わないことがあります。かえって反発や停滞が生まれることもあります。
これは、国や行政の制度が不要だという話ではありません。むしろ、制度は必要です。ただし、その制度が現場の理と接続されなければ、人は動きにくくなります。
日本社会では、制度をつくる側と暮らしの現場のあいだを、どう調整し、どう結び直すかが、古くから大事にされてきたのではないでしょうか。
5|国家に頼ることと、強い権力を求めることは違う
ここで大事なのは、国家に頼ることと、強い権力に従いたいということは同じではない、という点です。
安心を支える制度はほしい。困ったときに支えてくれる行政は必要。災害や危機のときには、全体を見て動く力も必要です。
けれど、それは、暮らしの現場を上から一方的に動かしてほしいということではありません。
むしろ、日本人の感覚では、国家や行政には「命令すること」よりも、「支えること」「調えること」「全体を崩れないようにすること」が求められているのかもしれません。
だからこそ、国家に安心を求めながらも、強い権威や権力が前面に出ることには抵抗が残るのだと思います。
6|動的平衡としての国家感覚
国家や行政の支えは必要です。けれど、強い権力によって暮らしの現場を一方的に動かされたくはない。
このねじれは、単なる矛盾ではなく、支えと自由、制度と現場、全体と土地ごとの暮らしのあいだで、バランスを取ろうとする感覚なのかもしれません。
一つの強い力で全体を押さえ込むのではなく、土地ごとの理や現場の秩序を残しながら、全体として崩れないように結び直していく。
村の履歴書では、こうしたあり方を、動きながら均衡を保つ「動的平衡」の感覚として見ています。
構図にすると、こうです。
国家や行政には、安心して暮らすための支えを求める
↓
しかし、強い権威や権力に従いたいわけではない
↓
国家不要論ではなく、強権的な国家への抵抗
↓
国や行政は必要だが、土地や現場を押し潰してはいけない
↓
土地ごとの理・共同体の秩序・暮らしの現場
↓
全体を支え、結び直す拠り所としての中心軸
↓
動的平衡としての日本社会の国家感覚
もちろん、これは、戦後経験、政治不信、平等意識、制度への距離感、個人の自由を重んじる感覚なども、当然重なっています。
ただ、その奥には、土地ごとの秩序を消さず、全体として結び直そうとする列島的な感覚が響いているようにも見えます。
国や行政は、土地の理を消すためにあるのではない。それぞれの土地や現場を結び直し、全体を崩れないように保つためにある。
そう考えると、日本人が国家に安心を求めながら、強い権力を嫌うというねじれは、日本社会に残る「国や行政と現場のあいだの感覚」を示す、ひとつの具体事例として読むことができるのかもしれません。
参考資料
電通総研・同志社大学「世界価値観調査」分析。日本は「国民皆が安心して暮らせるよう国はもっと責任を持つべき」で77か国中5位、「権威や権力がより尊重される」ことを良いとする回答は1.9%で77か国中最下位とされています。電通総研・同志社大学「世界価値観調査」分析
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