長野の山奥で静かに佇む100万円前後の古民家|村の履歴書
ここでは、そうした「引き継ぎ可能性」もある古民家を含めて紹介していきます。
信濃国の山あいには、人の暮らしが途切れたあとも、山と水の巡りのなかで、静かに佇み続けてきた家々があります。それらは自然の営みとともに、この土地の遥かなる時の流れのなかで、今に至るまで、その姿を保ってきました。
本ページでは、そうした古民家を、「ここに身を置いていけそうか」という感覚も大切にしながら、心の置きどころに目を向けるかたちでまとめています。
🛖 長野・七二会(なにあい)|土地の祈りが息づく古民家
七二会(なにあい)は、山と谷に囲まれた長野市西部の奥深くに位置する山の里です。人々の営みが少しずつ引く中にありながらも、土地に根ざした祈りと惣村の秩序を内に保ったまま、静かに在り続けてきました。
七二会に残る古民家は、そうした静寂と土地の秩序の上に建ち、山と水の巡りのなかに、今もあるがままの姿で残されています。
七二会という土地の背景(詳しく)
鎌倉の世より、この地に根ざしてきた国津の武士たちは、山と谷に寄り添う志をもって七二会を守り続けてきました。中央の秩序から一定の距離を置き、この地を「結界の地」として守り続けてきたのです。
自然への祈りを通して暮らしを山と水の巡りの中に置き、遥かな時を琥珀のように静かに留めおく――そうした七二会独自の暮らしの感覚は、今も土地に息づいています。
これらの古民家は、七二会という土地が長く保ってきた祈りと結界の感覚を、今に伝えています。
ここでは、土地に根ざした祈りと惣村の秩序、そして山と水の循環が重なり合う七二会において、古くから暮らしを支えてきた古民家をご紹介しています。
📜 七二会という土地が歩んできた遥かなる時の流れ、自然の巡りや祈りについては、七二会の物語としてまとめています。
※以下に紹介する古民家は、いずれも七二会・岩草区に所在します。
📷 神社麓(前衛) — 春日山神社の麓、国津の守りに立ってきた古民家
この古民家は、七二会・岩草区、春日山神社のお膝元に位置しています。
山と水が交わる谷筋に立ち、集落と神社、自然と人の暮らしが結び合う場に残る家です。
この土地と古民家の背景(詳しく)
この古民家は、七二会の岩草区、春日山神社のお膝元にあたる場所に位置しています。
山と水が交わる谷筋に立ち、遥か古の時代、朝廷や寺社勢力が営んだ荘園を眼下に収める位置に建てられてきました。
春日山神社は、この一帯における国津の守り神として、鎌倉の世より春日氏が長く関わり、祈りを重ねてきた場です。それは単なる信仰の場ではなく、山・水・人の暮らしを結び留める要として、この土地の秩序を支えてきました。
この家はそのお膝元にあって、神社と集落、自然と人とのあいだに立つように在り続けてきました。中央の秩序や効率が優先される世とは一定の距離を置きながら、山の勾配や水の流れに従い、土地の「内」と「外」を静かにつないできた場所だといえるでしょう。
山と水の谷筋に立つこの古民家は、遥かなる時の流れのなかで、その土地が求めてきた役割を引き受けることができるかどうかを、いまもなお静かに問いかけています。
🔹 谷筋・前衛・結界の家(白馬/中条側)
📷 神社麓(結界口) — 春日山神社のお膝元に佇む、集落入口の古民家
この古民家は、七二会・岩草集落へ入る細い一本道の入口に立ち、土地の「内」と「外」を分かつ境界に在り続けてきた家です。
この古民家の位置と役割(詳しく)
この古民家は、長野市七二会、春日山神社のお膝元にあたる岩草集落へと入る、細い一本道の入口に佇んでいます。長野市内から流れ込む人の動線を正面から受け止める位置に立ち、七二会という土地の「内」と「外」を分かつ境界として、長く在り続けてきました。
先に紹介した古民家が、国津の祈りと自然の巡りのただ中に自ら身を置く場所だとすれば、この家は、集落へ向かう人の流れを迎え入れ、祈りと結界の領域へと導く側に立つ存在だと言えるでしょう。
北アルプス側とは異なる方向にありながら、山と里が折り重なる七二会らしい風景が広がる立地です。家の前面は現在、竹林に覆われていますが、手を入れることで視界は大きく開け、世の秩序の乱れを静かに受け止め、鎮めるような広がりを眼下に感じられます。
この古民家は、自然への祈りへと至る道の入口に立ち、その位置と役割を引き受けることができるかどうかを、いまも静かに問いかけてきます。
🔹 入口・受け口・国津への導きの家(長野市側)
📷 上段(農の背後) — 集落の上段に残る、農を支えた廃屋古民家
この古民家は、七二会という土地の内部において、農と自然の巡りを静かに支えてきた家です。
この土地と古民家の祈りと役割(詳しく)
国津の祈り――
この家は、農を担い、山や水の巡りの一部として、春日山神社の傍らに在り続けてきました。周囲には今も農地がまとまって残り、集落の暮らしとともに、山と水、そして神社とを切らすことなく結び留める、国津の自然の巡りを静かに支えてきた存在だと言えるでしょう。
現在、建物は居住を前提とした状態ではなく、大規模な改修を施してまで暮らすための家とは言えないかもしれません。それでも、この場所に在るべき姿のまま佇み続けるその姿は、いまも大きく損なわれることなく残されています。
この家は、住まいとしての快適さを提供する場所というよりも、七二会という土地の内部において、農と作業、そして自然の循環の一端を、もう一度引き受けることができるかどうかを、いまもなお静かに問いかけてくる存在なのです。
🔹 入口・迎え・結界の家(七二会・岩草/春日山神社麓)
📜 七二会・岩草の地形や春日山神社、惣村のしくみについての詳しい考察は、七二会・岩草の理を読み解くをご覧ください。
📎 七二会地区住民自治協議会 の公式ページ(参考リンク)
🛖 長野・小田切|市内から少し離れ、呼吸を整える古民家
小田切(おたぎり)は、長野市西部、市街地の背後に連なる山間に位置する地区です。
善光寺平と西山地域との境にあたり、世の賑わいからほどよく隔たりながらも、山の時の流れに身を置くことのできる場所として、おのずから独自の距離感が保たれてきました。
武士の世にあってこの地は、戦や支配の影響を受けやすい境目の場所でもありました。
地頭支配や戦乱の波を受け、前線と後背のあいだに置かれる土地として、幾度も外からの圧にさらされてきたのです。
その一方で小田切は、人びとが寄り集いて抗う道を選ぶのではなく、それぞれに身を立て直し、暮らしを整え直す地として、静かに在り続けてきました。中央の秩序が揺らぐ折にも、自然の巡りの中に身を置きつつ、その立ち位置を守ってきたのです。
この土地の古民家が持つ性格(詳しく)
この地に残る古民家は、集落を守るための拠点というよりも、市内の喧騒から少し離れ、自分の呼吸や暮らしのリズムを取り戻すための場所として、受け継がれてきました。
市街地に近い場所にありながら、山の静けさと自然の巡りのなかで過ごせることが、この家の大きな特徴です。都市と山のあいだにある、いわば「隠れ家」のような性格を、今も色濃く残しています。
定住を前提とせず、二拠点での暮らしや週末の滞在、静かな作業の場として身を置く。小田切の古民家は、暮らしを背負い込む場所ではなく、忙しさから一歩距離を取り、自分を調え直すための拠点として、今もその役割を果たしています。
ここでは、そんな小田切が担ってきた「内と外のあわいに身を置く」という立ち位置を背景に、引き継ぎ可能かもしれない古民家を紹介していきます。
📷 七二会境界 — 武士が水を分かち、秩序を結んだ谷筋にある古民家
この古民家は、小田切の西端、七二会・論地(ろんじ)との境界にあたる谷筋に位置しています。水の巡りをめぐり、異なる土地どうしが向き合ってきた、その狭間に立つ家です。
この土地と古民家の境界としての役割(詳しく)
ここはかつて、水の分配をめぐって隣接する集落同士が向き合い、自然の巡りのなかでその扱いを論じ、国津の循環の中へと静かに鎮め置かれてきた土地でした。
この谷では、どちらの集落が水を引くかをめぐり争いが生じ、その調停のために在地武士が立ち会い、矢を放って水の分岐点を定めたと伝えられています。この出来事に由来して、この地は「論地(ろんじ)」と呼ばれるようになりました。
つまりこの場所は、国津の恵みである水を、武士という〈中央の理〉を媒介として、
国津どうしの秩序のなかへと編み直した地点だったといえるでしょう。この古民家は、そうした境界のただ中に立ち、山と水の循環のなかで、集落と集落、自然と人の営みを、静かに結び続けてきました。
市街地からほどよく距離を保ちながら、七二会と小田切という異なる性格をもつ土地が交わるこの地点。そこは、自然の巡りのなかで〈中央の理〉が意味をもって立ち上がる、その狭間に位置する土地でもあります。
この家は、水の巡りと、その間合いに生まれる空気のなかに身を置きながら、土地と土地のあいだで秩序を保ち続けてきた「境界の家」として、いまもなお静かに佇んでいるのです。
🔹 谷筋・境界・調停の家(小田切西端/七二会・論地)
📷 山奥つ方 — 乱世をやり過ごし、静かに身を置く古民家
この古民家は、小田切の山奥、山の斜面にある集落の一角に建っています。乱れる世の動きを遥か眼下に見渡すかのような場所にあり、街や制度の動きから自然と距離が生まれる土地です。
この古民家の立ち位置と時間の流れ(詳しく)
戦国期、この一帯もまた幾度となく外部の権力や戦乱の影響を受けてきました。それでもここは、前線として争われた場所というよりも、人びとが一歩身を引き、山の暮らしを続けながら、時代の乱れをやり過ごしてきた土地でした。
秩序を守ろうとして渦中に立つのでもなく、乱れに抗って声を上げるのでもなく、時代の流れから少し距離を取り、静かに全体を見渡す。この家は、そうした立ち位置の上に在り続けてきたと感じられます。
市街地からの距離は、遠すぎるわけではありません。けれど、山の奥へ進むにつれて、日常の速度や制度の感覚は、少しずつ遠のいていきます。山の静けさに包まれながら、時の流れがゆるやかに変わっていく感覚が、ここにはあります。
この古民家は、中央の秩序に抗うことも、積極的に関わることもなく、ただ距離を保ちながら、ささやかな暮らしを続けてきました。自然の巡りのなかに身を置く暮らしの在り方。
それは、いかなる世にあっても成り立ちうる、一つの生き方でもあります。
🔹 山奥・退避・静観の家(小田切・山の奥つ方)
📎 長野市小田切支所の公式ページ(参考リンク)
🛖 長野・中条|祈りと実りが重なり続けた地に残る古民家
長野市中条(なかじょう)は、北信濃の山々に囲まれ、山あいより平野へとひらける稲の恵みを受け、営まれてきた地です。山と里とはほどよく向き合い、自然の巡りに身を委ねながら、人の暮らしが積み重ねられてきました。
この土地においては、古くより祈りと農とが切り離されることなく、季(とき)の営みの中に溶け込みながら、受け継がれてきました。山の気配と平野の実りとが重なり合う中条ならではの風景は、今も日々の暮らしの背後にあって、静かに息づいています。
この土地の古民家が担ってきた役割(詳しく)
中条では、平野には稲の恵みがもたらされ、山は祈りを巡らす場としての役目を担ってきました。
その感覚は、ことさらに語られることもなく、大地の営みの中に溶け込みながら、縄文より長き時を経て保たれてきたものです。
中世に入り、在地の武士がこの地を治めるようになってからも、力によって押さえ込むのではなく、皇(すめらぎ)の秩序に保たれつつ、稲の恵みと土地の巡りが調えられてきました。
中央との縁を保ちながらも、暮らしの基(もとい)は、自然の恵みの流れに委ねられてきたのです。
ここでは、そんな中条が担ってきた「里と山の恵みを結ぶ」という立ち位置を背景に、引き継ぎ可能かもしれない古民家を紹介していきます。
📜 中条という土地が歩んできた遥かなる時の流れ、自然の巡りや祈りについては、中条の物語としてまとめています。
📷 山側上段 — 土着の静けさを身にまとい、あるがままを暮らす古民家

虫倉山の麓に位置し、山と水の流れに逆らうことなく建てられてきた古民家です。荒ぶる水を避け、風の通りを受け、山の勾配に従うようにして、自然の条件そのままに暮らしが形づくられてきました。
特別な装飾や主張を持たず、里山の暮らしとして必要なものだけを受け入れながら、今日まで静かに使われ続けてきた佇まいです。(※画像右側の建物)
この古民家がまとう静けさについて(詳しく)
自然に抗うことも、語ることもなく、山の神の気配のなかに佇みながら、この家は今日まで在り続けてきました。暮らしの中に国津の自然信仰が溶け込み、家そのものが里山の営みの一部として残されています。
この佇まいは、中央の喧騒から距離を置き、自然の空気に身を委ねながら、あるがままの暮らしを受け入れてきたことを、いまも静かに物語っています。
🔹 谷と平野を結ぶ、祈りと実りの循環の家(中条)
📷 山側中腹 — 武士が農と祈りのあいだに身を置いた〈かのような〉古民家

山沿いの道を登り、坂の折れ目にあたる中腹へと至ると、その先にひらける山の頂の集落を遥かに見渡す位置に、この古民家は佇んでいます。山と平野のあいだに身を置き、祈りと稲穂の恵みとが自然に重なり合う、中条らしい立地です。
山は祈りの場、平野は農と実りの地──この土地で古くから受け継がれてきた感覚の、その「間(ま)」に位置する古民家です。どちらかに偏ることなく、山と里の気配を同時に感じられる場所に建っています。
この古民家が「間」に置かれてきた意味(詳しく)
かつてこの地に関わった在地の武士たちは、力によって土地を押さえるのではなく、祈りと農の巡りが乱れぬよう、その間に身を置き、流れを調える役割を担っていました。
中条の山側中腹に残るこの古民家は、祈りと農、山と平野、在地と中央──それらが切り離されることなく巡っていた、この土地本来の在り方を、その佇まいによって今に伝えています。
🔹 祈りと農の〈間〉に身を置いた家(中条・山側中腹)
📎 長野市中条支所の公式ページ(参考リンク)
🛖 長野・戸隠|封印の山に息づく、祈りが重なる古民家
戸隠(とがくし)は、長野市北西部の山深い場所にあり、急な山々と深い森に囲まれた地域です。古(いにしえ)の時より、山の暮らしとともに、荒ぶる自然への祈りが重ねられてきました。
戸隠に残る古民家は、かかる自然と祈りとが重なり合う土地の流れの上に建ち、山の気配を日々の暮らしのうちに受け止めてきました。
祈りの循環としての戸隠(詳しく)
この地では、荒ぶる自然の力を、祈りによって受け止め、鎮め、ともに生きるという在り方が選ばれてきました。在地に根づく祈りを土台としながら、天津の秩序がそれを整え、結び直してきたのです。
奥深くに鎮座する九頭龍の祈り、山中に連なる社々、そして人びとの暮らし。これらは対立することなく重なり合い、荒ぶる自然の力を封じ、整え、国の循環の中へとつなぐ役割を担ってきました。
戸隠に残る古民家は、こうした祈りと封じの秩序の上に建てられています。自然の力とともに生き、それを日々の暮らしの中に取り込みながら、再び自然の巡りへと還していく。その祈りの空気を、今も静かに伝えています。
ここでは、そんな戸隠という場所が持つ遥か古(いにしえ)の時の流れに、そっと身を置ける引き継ぎ可能かもしれない古民家を紹介していきます。
📜 戸隠という土地に組み込まれた祈りと封印の構造については、戸隠の物語としてまとめています。
📷 緩衝・谷口 — 龍と人のあわいに佇む、土着の祈りを継ぐ古民家

戸隠栃原——奥社へ向かう前の原(はら)、そして鬼無里へと抜ける境にあたる谷口に、この古民家は静かに佇んでいます。
龍の気配が流れ込むこの場所は、荒ぶる自然の力と人びとの暮らしとが、その巡りの中で調えられてきた土地でした。
この古民家は、自然の荒ぶる力を拒むことなく受け止め、祈りと暮らしのなかで龍の気を和らげ、自然の気を静かにおさめてきました。
この古民家が担ってきた「結び目」の役割(詳しく)
この家は、天武の地——鬼無里へと自然の巡りを手渡すための、〈柵(しらがみ)〉のような位置に建っています。谷を渡る風、水の音、土の重み。それらは荒ぶることなく、この場で一度ほどけ、調えられてきました。
中央の秩序から一定の距離を保ちながらも、国津の自然の流れの中にただ身を置く。この古民家は、戸隠と鬼無里を結ぶ「前の原」として、長い時を経て、なおもその役割を静々と果たしてきたのです。
🔹 谷筋・緩衝・祈りを受け止める家(戸隠・栃原)
📷 戸隠神社谷あい— 国津の息づく、安堵の祈りに包まれた古民家

戸隠の神社から脇道を下り、渓流に沿って歩を進めると、谷あいの静けさのなかに、ひっそりと一軒の古民家が佇んでいます。人の気配が薄れ、木々と水音だけが残る、隠れ谷のような場所です。
小さな川のせせらぎと、木々を渡る風。その穏やかな巡りのなかで、暮らしの時間もまた、ゆっくりとほどけていくような空気があります。
安堵の祈りに包まれてきた、この谷の背景(詳しく)
この谷は、戸隠神社の祈りによって国津の巡りのなかに整えられ、荒ぶる気配が静かに和らげられてきた場所でした。八百万の神々の気配は、この谷をそっと撫でおろすように満ち、九頭龍の力もまた、荒ぶることなく静かな呼吸として調えられています。
この古民家は、そうした安堵の空気のなかに佇みながら、戸隠のいにしえの記憶とともに、今も巡りの中にひっそりと息づいているのです。
🔹 神社直下・谷あい・安堵された国津のポケット(戸隠)
📎 長野市戸隠支所の公式ページ(参考リンク)
🛖 長野・信州新町|犀川の巡りに身を置く古民家
信州新町は、犀川という大きな流れに抱かれた、内陸の要にあたる土地です。川とともに人や物が行き交い、川とともに人や物が行き交い、古くから往来の拠点となってきました。
一方で、人びとはそうした流れと距離を取り、山へと身を寄せることで、暮らしを調えてきました。信州新町、とくに山側の集落や信級の地は、犀川の動きを遥かに見据える位置にあります。
犀川と山がつくってきた信州新町の背景(詳しく)
縄文の昔から、犀川は翡翠や山の恵みを運ぶ道として、人々の暮らしを調えてきました。その流れは、この地に豊かさをもたらす一方で、利や力をめぐる争いを招くこともありました。
この地は、多くの人や物が行き交う場所であったため、戦国の世には争いの舞台となり、平野部はつねに落ち着かない時代を経験してきました。
そうした喧騒から少し離れるように、山側では、自然の恵みを日々の糧とし、山と水に寄り添う静かな暮らしが続いてきました。
信州新町は、交易の川がもたらす動きのある時間と、山に根ざした静かな時間とが、今も重なり合う土地なのです。
ここでは、そんな信更町が担ってきた「山あいに分かれて暮らしを立ててきた」という立ち位置を背景に、引き継ぎ可能かもしれない古民家を紹介していきます。
📷 信級・山側|国津の恵みを調える、山の静けさに佇む古民家
信州新町のうち、信級(のぶしな)の集落は、犀川の流れからはるかに距たり、山の奥に位置しています。平野とは別(こと)なる国津の静けさの中で、人びとの暮らしが営まれてきた地です。
これらの古民家は、そうした信級の集落の中にあって、山の静けさに寄り添い、自然の恵みを日々の糧としながら、暮らしを重ねてきた家々です。
信級という土地が担ってきた役割(詳しく)
縄文以来の祭祀の痕跡を伝える宮平遺跡と、その傍らに鎮座する當信神社は、この地が単なる山村ではなく、自然の恵みと人の営みが重なってきた場所であったことを示しています。
山からは麻をはじめとする多様な資源がもたらされ、それらは人々の暮らしを支えてきました。中央は、そうした自然の恵みを天津の秩序の中に取り込み、暮らしの中へと編み込んでいきました。
當信神社が式内社として整えられ、諏訪系の信仰が重ねられていったのも、自然の力を受け止め、それを秩序のよりどころとしていくためであったのでしょう。
信級は、国津の恵みを受け止め、天津の秩序によってそれを調える、その結び目として、長い時をかけて歩んできた土地なのです。
神社のお膝元|国津の豊かさを調える結び目に佇む古民家(記録)

この古民家は、取り壊されてしまいました。しかしながら、この土地に確かに在った風景の記録として、引き続き掲載しています。(付記 2026.1.20)
国津の豊かさと秩序が結ばれてきた背景(詳しく)
山の恵みが豊かで、麻をはじめとする八百万の資源がもたらされてきたこの地は、その豊かさゆえに、早くから中央の秩序に組み込まれてきました。
しかし同時に、人びとは自然の恵みを祈りとともに調え、国津の力を土地の基盤として保ち続けてきたのです。
その巡りを天津の秩序が整えることで、八百万の地としての恵みが、静かにこの地を潤してきました。信級は、国津と天津が対立するのではなく、結び合うことで成り立ってきた土地だと言えるでしょう。
この古民家は、そうした結びの場のすぐ近くで、自然の力と人の暮らし、そして祈りと秩序のあいだに身を置きながら、長い時間をかけて、静かに暮らしを紡いできた家です。
🔹 神社のお膝元・結節・調えの家(信州新町・信級)
神社背後|神社の結びを背後から支える、後方の古民家

この古民家は、信級の集落のなかでも、前述した取り壊された古民家とは向かい合う位置にあり、同じ集落に属しながらも、わずかに引いた立ち位置にあります。
祈りと暮らしが直接重なる結び目そのものではなく、その結びを背後から受け止め、中央と国津の巡りが乱れぬよう、静かに支えてきました。
国津の自然の豊かさと、天津の秩序とが結び合うこの集落において、神社のお膝元が「調えの間(ま)」として働いてきたとすれば、
この家は、その調えを静かに支え、空気を鎮める役割を担う場として、祈りと自然の巡りのあいだに身を置いてきたのです。
🔹 神社背後・巡りを支える後方の家(信州新町・信級)
📷 山上条・谷見(たにみ)|犀川を見下ろす結節の地に残る古民家

信州新町のなかでも、上条・山上条の集落は、犀川を見下ろす河岸段丘に位置し、古くから交通や交易の要となってきました。
山奥に国津の力を抱え込む信級とは異なり、この地では、川を行き交う人や物の気配が身近にあり、暮らしもまた外へと開かれてきました。
麻をはじめとする山の資源、犀川の水運、そして街道の往来。
こうした流れが集まる場所では、人と利の動きが重なり合い、ときに在地の武士や城郭、さらには天津の秩序が関わりながら、関係を整える役割を果たしてきました。
上条・山上条は、山と川、自然と秩序を結び直すための結び目として、長い時間をかけて営まれてきた集落です。
この地に残る古民家は、そうした土地の間合いの中で、川と山の双方に目を配りながら、日々の暮らしを支えてきました。
信州新町という土地がもつ「動き」と「統(おさ)め」の記憶を、今も静かに伝えています。
📎 長野市信州新町支所の公式ページ(参考リンク)
🛖 長野・信更町|時代の激流をかわし、静かに続く山間の古民家
信更町(しんこうまち)は、大きな川の流れである犀川を見下ろす、一段高い場所に広がる集落です。山奥の閉ざされた土地ではなく、なだらかな山間にひらけた位置にあります。
犀川を巡る物流や時代の動きを感じ取りながらも、それに深く巻き込まれすぎない距離を保ってきました。
そのなかで、人びとは川と道を行き交う人の流れや、山の恵みを大切にしながら、時の流れとともに、暮らしを少しずつ、けれど確実に積み重ねてきました。
自然の巡りのなかに身を置き、その恵みを生業に活かすとともに、中央の秩序とも程よい距離感で関わってきたのです。
中央の慌ただしさでもなく、さりとて山奥の孤立とも異なる――
その「あわい」に身を置くことで、人びとは長い時をかけて、この土地に根を下ろしてきたのです。
この土地が「間(あわい)の地」として機能してきた理由(詳しく)
信更町は、犀川という大きな流れを見下ろす場所にありながら、その奔流の真っただ中にある地ではありません。
犀川を巡る争いや災害、権力の移り変わりが起こりやすい平野部とは、ほどよい距離を保ってきました。
その立地は、混乱を受け流し、暮らしを立て直し、次へとつないでいくための場所として、長く役目を果たしてきました。
それが、信更町という土地です。

ここでは、そんな信更町ならではの立ち位置を背景に、引き継ぎ可能かもしれない古民家を紹介していきます。
📷 高野・山側中段|祈りと暮らしのあいだに置かれた平屋の古民家

山の最上部に構える寺社の階段下、集落を見下ろす山側中段に建つ平屋の古民家です。祈りの場に近い位置にありながら、日常の暮らしを支えてきた家でした。
この古民家が置かれてきた場所の意味(詳しく)
高野集落は、ゆりかごのような地形に抱かれた場所です。この平屋は、祈りの場に最も近い位置にありながら、祈りそのものを担うのではなく、里の時間と山の時間をつなぐ役割を担ってきました。
畑に近い平屋のつくりや、集落全体をやわらかく見渡す立地からは、特別な権威を示すための家ではなく、自然の巡りのなかに身を置き、寺社の祈りに包まれながら暮らすための家であったことがうかがえます。
信更町という土地が持つ、「祈りと秩序」「山と里」のあいだに立つ性格を、もっとも素直なかたちで体現した古民家のひとつです。
🔹 山と里の切り替わりに置かれた家(信更町・高野)
📷 高野・集落中央|暮らしの祈りを担ってきた二階建ての古民家

この古民家は、高野集落のなかでも、山側でも谷側でもない、ちょうど中ほどに位置しています。祈りの場に近い上段とも、里から犀川へ下りていく下段丘とも距離を保ちながら、集落全体の暮らしが行き交う位置に建つ家です。
二階建てという構えからは、この家が単なる住まいにとどまらず、家族の営みや農の仕事、人の出入りを受け止める、実の役割を担ってきたことがうかがえます。
集落の動きや季節の巡りを日々感じ取りながら、暮らしの調子を整える場所であったのでしょう。
山の時間と里の時間、祈りの層と生活の層が重なり合う高野集落において、この家は特定の役目に偏ることなく、暮らしの中心としてあり続けてきました。
集落の「真ん中」に身を置きながら、人びとの生活を静かに支えてきた古民家だと言えるでしょう。
🔹 集落中央・暮らしの核となる家(信更町・高野)
📎 長野市信更支所の公式ページ(参考リンク)
🛖 長野・生坂村|犀川の回廊 — 中央と在地のあわいに立つ古民家
生坂村は、犀川が深く蛇行しながら山あいを貫く「回廊」に位置する集落です。
山に囲まれた穏やかな地でありながら、人や物、そして時の流れが行き交う場所として、この地は長く続いてきました。
わずかな段丘や緩やかな平地では、暮らしを支える稲作や畑が営まれてきました。
一方で、犀川という大きなうねりは、その重要さゆえに中央の秩序を招き入れ、人と物の流れを調える役割を担ってきました。
この地では、自然の力と人の営み、そして中央の秩序と在地の暮らしが、対立することなく、重なり合い、静かに調整されながら受け継がれてきたのです。
回廊の只中にありながら、争いに呑み込まれることなく、穏やかな暮らしの巡りを保ち続けてきた場所でもあります。
ここでは、そんな生坂村が担ってきた「川の流れに寄り添い、狭間で暮らしをつないできた」という立ち位置を背景に、引き継ぎ可能かもしれない古民家を紹介していきます。
📷 生坂村・山道分岐|犀川の回廊を見下ろす、峠に立つ調えの古民家

この古民家は、生坂村の集落からさらに一段、山道を上がった場所に、ぽつりと佇んでいます。犀川の回廊を見下ろし、川沿いの秩序と在地の暮らしのあわい(間)に、そっと身を置く家でした。
この古民家が立つ「回廊上段」という場所について
この古民家は、峠越えの道から分かれ、山へと入っていく小さな分岐の上に佇んでいます。この先を下れば、小さな集落が点在し、さらに坂を下りきると、犀川沿いの県道へとつながっていきます。
一方、家の背後には山道が続き、その先は安曇野・松本城下へと抜ける峠道へと連なっています。人や物が行き交う川筋の動きからはほどよく距離を取りつつ、山の気配と祈りの穏やかさが漂う、自然の巡りの中にあります。
集落の中心でもなく、利が交わる只中でもない。けれど、人と物、そして土地の気配が行き交う「回廊」を、静かに見下ろす位置に、この家は置かれてきました。
在地の暮らしと自然の巡りを守るように立ち、この古民家は、生坂村という土地が持つ「通し、留め、調える」という役割を、ただ在り続けることで、伝えてきたのかもしれません。
🔹 山道分岐・回廊上段の調え所(信濃国・生坂村)
📎 長野県生坂村の公式ページ(参考リンク)
🛖 長野・小野町|街道と諏訪をつなぐ境界の地にある古民家
小野町は、諏訪盆地と松本平を結ぶ峠道の途中、街道・山越え・水の巡りが切り替わる境界に、調えられてきた土地です。
諏訪からは荒ぶる縄文の神を調え、中央からはその秩序を、和をもって在地へと通す。
そうして受け止め、調え、次の土地へと渡す――
その間(ま)を、小野町は自然の巡りに合わせるように引き受けてきました。
小野神社と、この土地の役割について
この地に鎮まる小野神社は、諏訪大社の二之宮とされ、縄文吹きあがる大地の霊性が、山を越えて届く場所です。
荒ぶる力をこの地に鎮め、街道を行き交う人の世へと諏訪の祈りを静かに通す――その役目を、この神社と土地はともに担ってきました。
小野の地は、そうして祈りを人の世の秩序のなかに留め置く、その結節点として在り続けてきました。

ここでは、そんな小野町が担ってきた「諏訪の祈りを、人の世の秩序のなかに留め置く」という立ち位置を背景に、引き継ぎ可能かもしれない古民家を紹介していきます。
📷 小野宿・街道沿い|諏訪の祈りを静かに通す古民家
この古民家は、小野宿のなかでも、街道に直に面した場所に佇んでいます。
街道と敷地のあいだには、わずかな段差と石垣が設けられ、行き交う流れを見据えつつ、そのまま暮らしの場へ引き込まない構えが残されています。
中央と在地を行き交う人や物の動きに調いながら、ときにやさしく受け止め、次へと受け渡す――小野宿が担ってきた境界の役割を、日常の暮らしのなかで引き受けてきた一軒です。
🔹 街道・境界・調えの家(小野宿)
📎 長野県辰野町の公式ページ(参考リンク)
🛖 長野・真田町|世の流れから距離を取る谷あいの古民家
上田市真田町は、千曲川流域に広がる大きな時代の流れから一段引いた、谷あいに位置する地域です。
主要な街道や物流の本流に直(じか)に連なることはなかったものの、人と物、そして時代の気配を、静かに感じ取ることのできる立ち位置にありました。
山の奥に閉じ籠もることなく、中央の秩序に強く縛らるることもない。
その「あわい(間)」に身を置きつつ、周囲の動きを見渡しながら、暮らしを無理なきかたちに調えてきました。この寄りすぎぬ距離こそが、真田町という地のあり方です。
そして今もなお、時の移ろいを受け止めるための「間(ま)」が、この地には静かに残されているのです。
ここでは、そんな真田町が担ってきた「世のあわい(間)に身を置く」という立ち位置を背景に、引き継ぎ可能かもしれない古民家を紹介していきます。
📷 真田町・谷筋中段|世の動きを見据える、茜の古民家

この古民家は、真田町の少しだけ山あいへ入り込んだ集落、その小さな谷筋の中ほどに位置しています。
深い山奥ではなく、かといって世の往来に近すぎることもない。谷筋からほんの少しだけ上がった程よい位置──集落の「ちょうど真ん中」に身を置いています。
世の中の動きや人の流れを、少し距離を置いて見渡すことができる場所。世の流れや時の気配は、しっかりと受け取ることができました。
時の流れに呑み込まれることなく、なおかつ断ちもしない。そんな「一歩引いた間(ま)」が、この場所にはあったのです。
それは、真田町という土地が、「世の流れに寄りすぎず、かといって背を向けることもない」その程よい距離感を、そのまま表しているようにも見えます。
世の動向を見据えながら、必要なときには動き、不要なときには静かに身を引く。
この古民家は、そうした立ち位置を、谷筋の地のかたちとともに選び取ってきました。
その佇まいからは、かつて人がここで暮らし、谷と集落、そして時代の流れのあいだに身を置いてきた気配が、今も静かに残っています。
🔹 谷筋中段・見極めの家(上田市・真田町)
📷 真田町・谷筋封口|世の流れを受け止める、集落の門口となる古民家

この古民家は、同じ集落の、ちょうど入口にあたる場所に建っています。谷筋に沿って通る道に面し、山から下りてくる自然の流れと、人の往来とが最初に交わる位置です。
世の流れをいったん受け止め、やわらかく通過させる。
この家は、そうした「封口」としての役割を、地のかたちとともに担ってきました。
世の動きを見据えつつも、自らは乱れず、自然の巡りのなかに身を置くことで、この地を調える。
この角地は、真田町という土地が持つ、「世の流れと距離を取りながら向き合う姿勢」を、そのまま映し出しているようにも見えます。
この古民家は、集落の中段にあって世の変化を捉え、内と外を静かにつなぐ役目を果たしてきました。
🔹 谷筋・門口・前衛の家(上田市・真田町)
📷 真田町・峠筋|境に立ち、世の趨きを量る古民家
この古民家は、真田町のさらに奥、長野市側へと抜ける峠道のあわい(間)に位置しています。世の趨き(おもむき)を見定める動線上に身を置き、外へとひらく峠道の筋に、静かに佇んでいます。
真田という土地が持つ、軽々に定めず、道を閉ざさぬ構え――その峠筋の縁(へり)に、この家はあります。
この家に通ずる峠の結界には神社が置かれています。越境の前に祈りが置かれる――それは、またこの峠道が「世を見定める道筋」であったことなのでしょう。
山の斜面を背に、身を低くしながら遠きを見定める。峠の風を受けつつ、境を越える前の間(ま)に立ち続ける――その構えは、今もこの家に残っているのです。
山の巡りに身を置きながら、世を見据え、構え、そして待つ。この古民家は、真田町における「世の境の縁(へり)」に立つ家です。
🔹 峠筋・あわいに立つ家(上田市・真田町)

📎 上田市移住定住サイトの公式ページ(参考リンク)
🛖 長野・高遠町|諏訪の理を内に留めた城下町に残る古民家
高遠町は、諏訪の祈りの影響を受けながらも、それを前面に押し出すことなく、理(ことわり)として内に収めることで成り立ってきた城下町です。
ここでは武士が、自らの荒さを抑えながら、中央と在地のあいだで生きるために、日々の振る舞いを調えてきました。
この規律の基となったのは、諏訪に見られる、荒ぶる自然の力を秩序として調える上社的な在り方でした。高遠町は、そうした武士的な作法を深く内に沈めることで、城下町としてのおさまりを形づくっていったのです。
人と物が往来する街道という重要な地にあっては、荒ぶる自然との境界で、秩序を「通す」必要がありました。そうして通された秩序は、やがて人の内側へと沈み込み、振る舞いや作法として定着していきます。
高遠町は、諏訪の自然的な霊性と江戸の秩序とを結ぶ位置にありました。その理を内に取り込みながら、両者のあいだを静かにつないできたのです。
ここでは、そんな高遠町が担ってきた「諏訪の理を内に収める」という立ち位置を背景に、引き継ぎ可能かもしれない古民家を紹介していきます。
📜 高遠町という城下町としての背景と武士の物語については、高遠町の物語 としてまとめています。
📷 高遠町・秋葉街道沿い|諏訪の祈りが城下の秩序へ調えられる前段にある古民家
この古民家は、諏訪大社前宮へと連なる山の祈りの気配を背に、秋葉街道沿いに位置し、高遠の城下町へと入っていく、その少し手前に佇んでいます。
この街道は、守屋神社の鎮まる国津の山を抜け、荒ぶる自然の力とともに、人や物、そして祈りの声を運んできました。
ここでは、その流れがいったん受け止められ、ならされ、調えられていきました。
そしてこの祈りの道は、南朝の里である長谷を抜け、下伊那へと通じていきます。
土着の信仰と山の龍の気配を伝えながら続く、国津の道でもあったのです。
この古民家が担ってきた、もう一段深い役割(詳しく)
秋葉街道は、龍の背骨のように高遠の地を貫き、山の祈りや自然の力を運んできました。それらは、荒ぶる力を内におさめた武士の規律として、やがて城下の秩序へと編み込まれていったのです。
この古民家は、そうした龍の力がいったん受け止められる「封口」ともいえる場所に建ち、荒々しい自然の気配を日々の暮らしの中でならし、調えながら、城下へと橋渡ししてきました。
高遠町においては、武士の秩序が成り立つための前段として、自然と祈りの力を受け止め、調整する役割を、この家が静かに担ってきたといえるでしょう。
🔹 秋葉街道・流入点・秩序前段の家(高遠町)
📎 伊那市高遠町総合支所の公式ページ(参考リンク)
🛖 長野・飯島町|天竜の段丘に刻まれた、流れと間(あわい)の古民家
飯島町は、天竜川が刻んだ段丘地形の上に広がる町です。川の流れに沿って人や物が行き交いながらも、その祈りは地形の段差によって受け止められ、分かれ、記憶として留められてきました。
崖上と崖下。田切(たぎり)と呼ばれる崖の地は、古の記憶とともに暮らしを分ける境となり、その間(ま)を保ってきました。上段には源氏の凛とした秩序が息づき、下段には平安の世の記憶が、淡い雪のように残されています。
この地に残る古民家は、そうした段丘の上やその縁に身を置きながら、天竜の流れとともに、時の移ろいを受け止めてきました。そして、ただ暮らしのかたちとして、その「あわい」に留まり続けてきたのです。
ここでは、そんな飯島町が担ってきた「異なる流れを受け止め、調えてきた」という立ち位置を背景に、引き継ぎ可能かもしれない古民家を紹介していきます。
📜 飯島町という土地が刻んできた段丘の記憶、天竜川の流れと祈りの重なりについては、飯島町の物語としてまとめています。
📷 飯島町・段丘の縁|街道の流れを調える古民家

この古民家は、三州街道に近い道沿いに建ち、人や物が行き交う流れの中で暮らしが営まれてきました。裏手には牛小屋や作業小屋が設けられ、旅人や物の流れとともに日々の暮らしがありました。
飯島町では、中央と在地を結ぶ通過点にありながら、段丘の上段には、源氏的な「武」の規律が、静かに保たれてきました。街道を行き交う人や物の流れは、ここでいったん受け止められ、雑を落とし、調えられていったのです。
一方、下段の地には、平安の雅の系譜を引く暮らしの気配が残され、その記憶は、段丘の縁によって、御社権現の元、静かに守られてきました。
この古民家は、そうした段丘構造の只中で、街道の流れに寄り添いながら、
受け止め、和らげ、次へと渡す——
飯島町が担ってきた「調える」という役割を、暮らしのかたちとして引き受けてきた、緩衝の場であったと言えます。
🔹 段丘の縁・街道沿い・調えの家(飯島町)
📎 長野県飯島町の公式ページ(参考リンク)
🛖 長野・佐久穂町|文明の縁(えにし)に身を置き、振る舞いを伝える古民家
佐久穂町は、千曲川の上つ瀬にあたる源の地であり、高原と寒冷の気配を宿し、八ヶ岳の稜線近く、千メートルほどの高みに身を置く土地です。
縄文の時より、黒曜石の交易路として人と物が行き交い、その往来の豊かさは、八ヶ岳の恵みである「火」の文化を育んできました。
八百万の神々、そして諏訪を本(もと)とする交易・霊性・政(まつりごと)の連なりが、周囲の山間地と交わり、さまざまな流れがこの地に集っていたのです。
縄文期から黒曜石交易が行われ、宗と利と人の業(わざ)が暮らしの内に折り重なりて息づく風景が、佐久穂ならではの「文明の縁(ふち)」を目指してきました。
この地に残る古民家は、中央と在地、秩序と物流、信仰と暮らしの境(さかい)を、受け止め、翻(ひるがえ)し、次へと渡す場として、日々の営みの内にその痕跡を刻んできました。
ここでは、そんな佐久穂町が担ってきた「山から下り来る力を、里の暮らしへと調えてきた」という立ち位置を背景に、引き継ぎ可能かもしれない古民家を紹介していきます。
📷 佐久穂町・高野宿近辺|流れを暮らしに落とす、間(ま)にある古民家

この古民家は、佐久穂町の中心部、高野宿のほど近くに身を置き、千曲川の流れに沿って町が形づくられてきた一角に建っています。街道沿いに家々が連なり、町の営みが積み重なってきた、その一端を担ってきた家です。
この地は、諏訪方面へと山道を分ける流れと、北杜市へ抜ける道とが交わる折れにあります。千曲川の流れと山へ向かう道とが重なるこの地で、人や物は、ただ通りすがるだけの場所ではありませんでした。
諏訪へ向かう祈りの道、そして甲斐へ抜ける山の霊性と向き合う覚悟を、町の暮らしの内で一度受け止め、調えられてきたのです。
この家は、そうした分岐のそばで、旅人や物流、町の人びとの往来を日常の風景として受け止めてきました。町家としての佇まいを保ちながら、流れをそのまま通すのではなく、暮らしの作法として身に置く役割を果たしてきました。
佐久穂町が担ってきたのは、中央と在地を直接結ぶことではありませんでした。祈りや利、人の業が折り重なる場として、それらを一度受け止め、暮らしの作法として人の振る舞いへと落ち着かせていくことだったのです。
この古民家もまた、街道の気配と町の生活、山へ向かう道と川沿いの流れ、そのあわいに身を置きながら、佐久穂という「文明の縁(えにし)」を、静かに支えてきた一軒だと言えるでしょう。
🔹 間(ま)・受け止め・作法としての町家(佐久穂町)
📷 佐久穂町・高野宿近辺|諏訪の霊性を暮らしの秩序に調える一軒家
この一軒家は、佐久穂町・高野宿のあたりから山へと歩を進めた、斜面の地に佇んでいます。千曲川沿いの街並みから、諏訪へと向かう山道へ入っていく、その境目に位置する家です。
この峠を越えると、縄文の自然の恵みたる黒曜石が眠る山域へと入り、自然の荒ぶる力が姿が顕わになります。そのような諏訪側から見れば、この場所は巡りの端口にあたります。
国津の霊性につらなる流れが山を越えてここに至り、ここで初めて、人の暮らしや往来、町の秩序へと結ばれていきます。
この家が担ってきた役割について(詳しく)
この場所は、山より下り来る霊性の力と、人の暮らしの秩序とが、真向きに出会う地点にあります。
この家は、自然の霊性をそのまま通すのではなく、暮らしの内で一度受け止め、調え、日々の作法として落とし込んできました。
荒ぶれは祈りとして鎮められ、やがて生活の決まりごとへと編み直されていったのです。
諏訪より連なる国津の霊性は、ここで「祈り」から「暮らし」へと姿を変え、人の世に耐えうる秩序として静かに調えられていきました。
この家は、縄文的な自然霊性と、中央へ向かう調えの仕組みとを結び、それを下方の集落へと静かに手渡していったのです。
この一軒家は、佐久穂町が持つ「文明の縁(えにし)」という在り方を、暮らしの場として、今もなお静かに紡ぎ留めています。
🔹 街道・境界・調えの家(高野宿)
📎 長野県佐久穂町の公式ページ(参考リンク)
🛖 長野・南木曽町|峠に理(ことわり)を通し、道を守ってきた古民家
南木曽町は、東と西を結ぶ峠道に位置し、古くから人・物・時代の流れを滞りなく通す役割を担ってきました。
荒ぶるものを鎮め、通すべきものを通す。
峠ならではの「調えの地」として、その役目を引き受けてきました。
険しい谷と荒ぶる地形の只中で、道を調え、橋を架け、秩序を通すことが、暮らしの務めでした。
この地では、「蛇抜け」(土砂災害)と呼ばれる荒ぶる、自然の力をも受け容れ、祈りと技によって調えられ、人の行き交う道は通されてきたのです。
そうした積み重ねが、南木曽町の在地としての誇りと、たたずまいを成しています。
ここでは、そんな南木曽町が担ってきた「峠に理を通す」という立ち位置を背景に、引き継ぎ可能かもしれない古民家を紹介していきます。
📜 南木曽町という土地が担ってきた峠の役割、荒ぶる地を調え、道を通してきた営みについては、南木曽町の物語としてまとめています。
📷 南木曽・三留野宿|中山道に理が通された、街道沿いの古民家
この古民家は、人や物が行き交う街道に身を置き、日々その流れを受け止め、調える役目を担ってきました。
中山道・三留野原宿という、人の往来と物の巡りが交差する場にあって、天津の理、そして時に国津の理を、滞らせることなく「通す」ことに、静かな誇りをもってきた家です。
南木曽のなかでもこの場所は、蛇抜け(土砂崩れ)といった荒ぶる自然と正面から向き合う場ではありませんでした。
けれど、背後には南木曽の急峻な山並みを負い、正面には、人の往来をひらいてきました。荒ぶる力は、ここでいったん調えられ、秩序として通されていく――その理を、この家は佇まいのうちに宿し続けてきたのです。
🔹 街道・秩序・通す家(三留宿・中山道)
📎 長野県南木曽町の公式ページ(参考リンク)
🛖 長野・泰阜村|自然の巡りのなかに身を置く、祈りと暮らしの古民家
泰阜村(やすおか)は、八百万の神々、すなわち国津の神に根ざした、在地の暮らしの基(もと)に育まれてきた村です。
南山の結束、稲伏戸の祈り、我科(がじな)の庵――それぞれ異なる出自でありながら、人と自然とが巡り合う里を形づくってきました。
この地では、それぞれが自然の巡りのなかに身を置き、同士とともに、新たな地平へと歩みを重ねてきました。この里において、自ずと保たれてきた村の有り方だったのです。
ここでは、そうした自然の巡りを拠りどころとして、役目を終え、静かに山へと還りつつある、それでもなお、引き継がれる可能性を残した古民家を紹介していきます。
📜 泰阜村が育んできた、自然への祈りと暮らしの巡りについては、泰阜村の物語としてまとめています。
📷 泰阜村・金野|周縁に身を置き、山に還りつつある古民家
この古民家は、泰阜村の最北端、飯田市との境にあたる金野という辺境の地にあります。
天竜川の流れに寄り添いながら、身を静かに自然の巡りに委ねる暮らしが重ねられてきました。その出自にかかわらず、人々の営みを受け止め、支えてきたのです。
それはまた、周縁の地としての役目を引き受けてきたことでもありました。この土地と古民家は、自然の巡りのなかに自らの役目をそっと終えたのです。
中央の秩序から距離を取り、無理に国津の理(ことわり)へ組み込まれることもなく、周縁としての役目を全うしました。
時の世の流れから一歩距離をとり、みずからを自然の巡りに合わせてきたこの古民家は、草木に包まれ、山の時の流れへと静かに身を委ねながら、少しずつ役目を終えていきます。
自然の巡りへと還し、次の縁を待つ――
それが、泰阜村において自ずと行われてきた暮らしのかたちです。
この古民家もまた、名を離れた者がここに身を置き、暮らし、そして自然の巡りのなかへと還っていく。その周縁における時の流れが、この土地の空気となり、自然の巡りのなかに静かに鎮まっていきます。
この古民家は、その縁(へり)に置かれ、力を和らげ、巡りとして通してきた家です。
🔹 境界・周縁・巡りの家(金野)
📎 長野県泰阜村の公式ページ(参考リンク)
🛖 長野・青木村|谷に集い、静かに調う古民家
青木村は、急峻な峠を背に、谷がゆるやかに収まる、山々に抱かれた穏やかな土地です。人々は顔を合わせ、集い、その道を行き来してきました。
いつしかこの谷に、人や言の葉が寄り集い、峠を越えて運ばれてきた気配は、静かに調い、やがて一つのかたちを成していきます。
その先には、上田城下へと続くまっすぐな道がひらけています。世の流れを受け止めながら、ここで調えられたものは、再び外へと通っていきました。
遥か峠を越えて集まったものを、静かに見つめ直す場所。
それが青木村です。
この地のかたちを背景に、静かに次の縁を待つ古民家をご紹介します。
📜 峠道と渡恋神社、そして谷の収束が生む「境界の調え」から青木村を読み解く考察は、青木村の理を読み解くをご覧ください。
📷 青木村・峠前下段|往来を受け止める古民家
この古民家は、他藩へ抜ける急峻な峠を控えた東山道筋の下段に位置しています。
山を越えれば他領へと出る、その手前にあります。
谷がまだゆるやかに息をつく地点。往来の気は、まずここに届きました。峠を越えてもたらされる知らせは、この谷で集まり、調えられていきます。
外から入るものも、内から出ていくものも、境を越える前に一度ここで足を整える。東山道の峠口を見守るように神社が置かれています。
境を越える前に祈りがある。
この家は、往来の気が最初に触れる家です。
🔹 峠前・受け止めの家(青木村)
📷 青木村・峠前上段|山と向き合い調える古民家

この古民家は、峠へと続く道をさらに上った、谷の上段に位置しています。
山の気配が近づき、風が少しだけ鋭くなる地点。ここから先は、いよいよ峠越えの領域に入ります。
下段で受け止められた往来の気は、この上段で静かに落ち着きを取り戻します。
急峻な山を前に、人は足取りを確かめました。
峠は境であり、同時に選択の場でもあります。越えるのか、戻るのか。進むのか、留まるのか。
この家は、その判断の手前に身を置いてきました。山と真正面から向き合いながら、谷の暮らしを背にする位置。
外へ向かう力と、内へ留める力のあいだに身を置いています。今もなお、峠を前にして呼吸を整えるように、静かに佇んでいます。
🔹 峠前・調えの家(青木村)

📎 長野県青木村の公式ページ(参考リンク)
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なお、地域によっては公式窓口でも詳細情報が把握されていない場合があります。
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