なぜ、3世紀になると纒向に広域的な中心が生まれたのか

🏷️考察メモ📖国家OSの具体事例— 各地の交流ハブとの比較から、ヤマト王権形成の構造を読む —弥生終末から古墳時代初頭にかけて、列島各地には複数の広域交流拠点がありました。吉備、筑紫、山陰、東海、そして大和の纒向。多地域の土器が入り、人・物・技術が動くという現象は、纒向だけに見られるものではありません。だとすると、纒向の特殊性を「広域交流のハブだったから」と説明するだけでは足りません。問うべきなのは、各地に広域交流ハブがあったのに、なぜ纒向周辺では、地域を越える共通形式が生まれ、中心性が高まり、箸墓に代表される巨大な権威表現にまで至ったのか、ということです。広域交流ハブ ≠ 広域政治中心この違いから、3世紀の纒向とヤマト王権形成の構造を考えてみます。

この記事の読み方本記事では、纒向=邪馬台国、箸墓=卑弥呼の墓、卑弥呼=纒向の王という同定は前提にしません。まず考古資料から各地の広域交流ハブと纒向を比較し、なぜ纒向周辺では、人・物・技術が集まるだけでなく、異なる地域の製作技法や祭祀形式が交わり、共通形式・中心性・巨大な権威表現へつながっていったのかを考えます。

1|纒向以前から、地域同士はすでにつながっていた

弥生後期の列島には、地域ごとに異なる中心が育っていました。山陰・出雲では、日本海側の交流、青銅器祭祀、四隅突出型墳丘墓が発達しました。吉備では、大型墳丘墓と特殊器台・特殊壺を用いる首長葬送祭祀が発達します。北部九州には、中国・朝鮮半島との交流を担う対外交通の拠点がありました。奈良盆地にも、唐古・鍵などの大規模な弥生拠点が存在していました。しかも、これらの地域は孤立してはいませんでした。たとえば出雲の西谷3号墓には、山陰系土器だけでなく、吉備系・北陸系の土器が入り、吉備の特殊器台・特殊壺も確認されています。

一方、吉備側にも山陰系土器が入りました。

山陰・出雲吉備 北陸瀬戸内各地地域秩序地域間交流地域内部の首長権威や祭祀も変化

地域秩序と地域間交流は、お互いに関係し、影響し合いながら形成されていたと考えられます。つまり、纒向が初めて、地域同士をつないだというわけではありませんでした。

2|広域交流のハブは、纒向だけではなかった

広域交流の拠点そのものも、各地に存在していました。

弥生終末~古墳初頭の拠点吉備(津寺・加茂など)筑紫(比恵・那珂など)山陰・日本海側の拠点東海の地域中心大和(纒向)

こうした拠点には、多地域の土器が入り、遠距離から人や物が集まり、地域間交流の中心になるという共通性があります。人・物・技術が集まること自体は、纒向だけに限られてはいません。では、なぜ纒向周辺では、そこから広域政治中心へ向かう再編まで進んだのでしょうか。

3|纒向では、何が違ったのか

3世紀初頭、奈良盆地東南部に纒向が形成されます。纒向では、規格性のある建物群、大規模な溝・水路、祭祀関連遺構、多地域系の土器、周辺の初期古墳群などが確認されています。さらに、他地域で作られて運ばれた土器だけでなく、大和の土を使いながら、東海など他地域の製作方法により作られた土器もあります。

完成品が運ばれる【物の移動】大和の土で他地域の製作技法が再現される【技術・製作伝統の移動】その技術を担う人びとが活動する【人的移動の可能性】

なかでも「再編」がより具体的に現れているのが、吉備の特殊器台です。吉備では弥生後期、大型墳丘墓と特殊器台・特殊壺を用いる首長葬送祭祀が発達しました。

その系譜は大和へつながり、箸墓などの初期巨大古墳、特殊器台形埴輪、さらに円筒埴輪へと展開していきます。

吉備の特殊器台・特殊壺大和へ系譜がつながる箸墓などの初期巨大古墳特殊器台形埴輪円筒埴輪

つまり、地域で育った葬送祭祀や製作技術が、大和で新しい広域形式へ組み替えられていったと考えられます。纒向周辺では、各地の人・物・技術が集まり、異なる地域の製作技法や祭祀形式が交わり、広域的な共通形式へ組み替えられていった可能性があります。

4|共通形式が広がり、その中に突出した中心が現れた

纒向周辺には、箸墓以前にも纒向石塚古墳やホケノ山古墳などの初期墳墓群があります。その頃から、前方後円形を含む共通性のある墳墓形式が、地域を越えて広がっていきます。一方、墳墓の規模には大きな差があります。

地域ごとに異なる墓制地域を越える共通形式が広がるその中に大きな規模差が生まれる大和に突出した巨大墳が現れる箸墓

ここから見えてくるのは、共通化+中心化+権威差です。複数地域が共通形式へ接続しながら、その内部に中心性と権威差が形成されていきます。政治構造として読むなら、複数地域が共通形式に参加しつつ、その内部に中心となる首長が位置づけられる、いわば「連合+序列」という構造も考えられます。もちろん、古墳の大きさをそのまま政治的順位表と見ることはできません。広域的な共通形式と、突出した中心性が同時に現れる。そこに、単なる地域間交流とは異なる変化が見えます。

5|なぜ、奈良盆地の中央ではなく纒向だったのか

纒向は奈良盆地の中央ではなく、盆地と東側山地が切り替わる東南部に位置します。

【西側】纒向奈良盆地・大和川水系河内・瀬戸内方面
【東側】纒向初瀬宇陀東海方面

奈良盆地には、唐古・鍵など、纒向以前から存在する社会基盤もありました。纒向は、奈良盆地内部の既存基盤と、西方・東方への接続が重なる場所だったことになります。複数の地域ネットワークを受け止めるうえで、この立地は重要な条件だった可能性があります。しかし、立地条件だけで政治中心化を説明することはできません。纒向を広域政治中心へ押し上げた別の条件もあったはずです。

6|交流ハブを政治中心へ変えたものは何か

政治中心へ変えたものの候補としては、地域間の利害関係の複雑化、倭国内の争乱・競争、東アジア外交秩序の変化、複数地域をまたぐ代表・調整の必要、大和・纒向の立地条件、首長間の交渉・婚姻・祭祀、共同造営や動員などが考えられます。

地域間の関係が複雑化地域ごとの調整だけでは処理しにくい局面が増える?複数地域で共有できる権威・祭祀・墳墓形式の意味が高まる?広域的な判断・調整を担う中心の意味が高まる?纒向各地域の技術・祭祀・墳墓形式を広域共通形式へ再編中心化 + 巨大な権威表現

そこで、次に確かめるべきなのは、何が纒向の政治中心化を促したのかです。各地域の技術・祭祀・墳墓形式が纒向で組み替えられ、広域的な共通形式と中心性が生まれていったとすれば、纒向は単なる交流拠点ではなく、地域ごとの秩序を広域秩序へ再編する中枢だった可能性があります。

7|3世紀の纒向で、何が新しく生まれたのか

全体を一本にすると、次のようになります。

既存地域秩序↑↓地域間ネットワーク各地に広域交流ハブ【何が加わったのか】纒向各地域の技術・祭祀形式が交わる広域共通形式への再編中心性 + 権威差巨大な権威表現初期ヤマト王権的秩序

ヤマト王権形成の前提には、すでに地域間ネットワークと各地の交流ハブがありました。3世紀には、それらの上に、地域ごとの技術・祭祀・墳墓形式を広域共通形式へ組み替え、その内部に中心性と権威差を生み出す動きが重なっていきます。その再編中枢として、3世紀の纒向が浮かび上がります。では、交流ハブを政治中心へ変えたのは何だったのか。次に確かめるべきなのは、そこです。

この考察をさらに見る▶ 土地ごとに形成された秩序を、広域的に接続・再編する国家OSの基本構造については、日本国家OS|土地ごとの秩序を、広域的に接続・再編するで整理しています。▶ 地域を越える共通形式が、土地ごとの既存秩序とどのように接続していくのかについては、日本国家OS|統合原理 ― 透過秩序としての統合をご覧ください。▶ 東アジアの政治環境など、外部からの圧力が中心性を高める契機になり得る構造については、日本国家OS|統合原理 ― 外圧が同期を起こす文明構造で扱っています。
この考察から次の問いへ▶ 各地に広域交流ハブがあったのに、なぜ纒向周辺では政治的中心性が突出したのか。次に検証するのは、地域間利害、倭国内の争乱、東アジア外交秩序、立地、首長間交渉などのうち、何が「交流ハブから政治中心への変化」を促したのかです。
参考調査メモこの考察の下支えとして、3世紀の纒向に何が集まり、そこで何が組み替えられたのかを発掘資料・研究成果から整理したnote調査メモ「3世紀の纒向には、何が集まり、そこで何が組み替えられたのか」を別途まとめています。