🟫長野|八ヶ岳山麓 ― 湧水の谷と細長い台地に、田畑と集落が続く土地

ここでは、茅野市側に広がる八ヶ岳西麓を扱います。山から下る川が刻んだ谷、その間に残った細長い台地、さらに山側の原野や森林が、暮らしや農業、祭りとどのように結びついてきたのかを見ていきます。
1|諏訪盆地から八ヶ岳へ続く長い裾野
茅野市の東側では、諏訪盆地の平地から八ヶ岳へ向かって、標高が少しずつ上がります。
標高およそ770メートルから1,200メートルほどの山麓には、農地や集落が広がり、さらに山側には森林や高原が続きます。その先には、八ヶ岳の山々が連なっています。
八ヶ岳の火山活動によってできた裾野を、山から下る川が削りました。八ヶ岳側から諏訪盆地へ向かって延びる谷がつくられ、その間には細長い台地が残りました。
2|川が刻んだ谷と、その間に残った細長い台地
八ヶ岳の山腹から流れ下る柳川、鳴岩川、角名川、渋川などは、山麓を諏訪盆地側へ流れながら裾野を削り、谷をつくりました。
山麓では、地中を通った水が標高1,100メートル前後で湧き出す場所もあります。湧水から始まる小河川も台地を刻み、谷と谷の間には細長い台地が残りました。
尖石周辺では、角名川と鳴岩川に挟まれた「広見」と呼ばれる台地が、湧水から始まる小河川によってさらに分けられています。この周辺には、八ヶ岳側から盆地側へ延びる谷と細長い台地が交互に並んでいます。
3|湧水の谷に近い台地に営まれた縄文集落
尖石遺跡、与助尾根遺跡、与助尾根南遺跡では、湧水のある谷に近い台地上に縄文集落が営まれました。
谷にある湧水は、飲み水の確保や食料の獲得・加工に使われたと考えられています。一方、住居は谷から一段上がった台地上につくられました。
尖石周辺には、水を得られる谷と、そのすぐ近くに住居を置ける台地がありました。縄文集落は、谷と台地が近接する場所に営まれたのです。
4|台地上の原野と谷に開かれた水田
享保18年(1733年)に作成された絵図では、尖石周辺の台地は「原」、その間にある谷は「田」と記されています。
尖石遺跡の南北にある谷では、江戸時代以降、谷を流れる水を使って水田が営まれました。水田を広げるために台地の縁を削り、用水路を引いた場所もあります。
台地上の「原」は、南大塩村などが共同で管理する原野でした。人びとはここで、田畑の肥料にする草、家畜に与える秣、屋根を葺く萱などを得ました。さらに山側の原野や森林では、薪を採り、炭の材料や建物に使う木材を切り出しました。
「広見」と呼ばれた尖石周辺の原野は、周辺の村々が草や萱などを共同で得る場所として使われてきました。
5|原野の一部に広がった桑畑と、その後の畑
明治期に諏訪地域で養蚕が盛んになると、尖石周辺の共同採草地は区画ごとに分けられ、明治25年ごろから開墾が進みました。
台地上の原野の一部には桑が植えられ、その葉が養蚕に使われました。蚕糸業が衰えると、桑畑の一部は野菜などをつくる畑へ変わっていきました。
現在、茅野市・原村・富士見町にまたがる八ヶ岳西麓では、夏の冷涼な気候を生かし、セルリー、ブロッコリー、キャベツなどの野菜や、カーネーション、キクなどの花が栽培されています。牧草を利用した酪農も営まれています。
尖石周辺の台地では、草や萱を得る原野の一部が桑畑へ開かれ、蚕糸業の衰退後には、野菜などをつくる畑へ変わった場所もありました。
6|村と入会山を結び、草や木を運んだ道
南大塩村、現在の茅野市豊平地区では、渋川と鳴岩川に挟まれた南大塩山を、村の入会山として利用していました。
村から山へ続く道を通り、人びとは入会山へ入りました。山で草や萱を刈り、薪を採り、木材を切り出し、それらを村へ運びました。運搬には馬も使われました。
この山道は、現在の市道甲一号線の前身にあたります。1733年の「諏訪藩主手元絵図」にも、その道筋が描かれています。
人びとはこの道を通って入会山へ入り、山で刈った草や萱、採取した薪、切り出した木材を集落や田畑へ運びました。村と山を結ぶ道は、山側で得たものを暮らしの場所へ運ぶために使われてきました。
7|御小屋山から里へ曳き出される上社の御柱
御小屋山は、江戸時代以降、上社の御柱用材を調達してきた山です。
上社では、御柱祭の2年前に仮見立て、前年に本見立てを行い、御柱となる8本の大木を選びます。御柱祭の年の3月には伐採が行われ、御小屋山を代々管理してきた山作衆が最初に神斧を入れます。
伐り出された御柱は、山から里へ曳き出されます。御小屋山から上社までの道のりは、約25キロメートルに及びます。
御柱は山麓を下り、木落しや宮川の川越しを経て、前宮・本宮へ向かいます。御小屋山は、上社の御柱が山から里へ下り始める場所です。
8|谷・台地・山側を使ってきた八ヶ岳山麓
上川・宮川流域では、山から下る水の一部をせぎへ取り入れ、斜面に沿って延ばし、複数の川筋を越えながら田畑へ送りました。諏訪湖周辺では、盆地の各所から流れ込む水が湖へ集まり、湖面や浅瀬で漁が営まれ、湿地や湖岸の低地の一部が田畑に使われました。
下諏訪では、山と湖の間の短い斜面に、古い集落、春宮・秋宮、街道、宿場、温泉を使う宿や共同湯、仕事の場所が重なってきました。釜口では、諏訪湖から天竜川へ水が流れ出す出口を広げ、その下流の河道を掘り下げ、水門によって湖水位と放流量を調節してきました。
八ヶ岳山麓では、山から盆地へ下る裾野の中に、川が刻んだ谷、その間に残った細長い台地、さらに山側の原野や森林が続いています。
谷では、流れる水や湧水を使って水田が営まれました。谷に近い台地には縄文時代から集落が置かれ、後の時代には原野、桑畑、野菜畑などが広がりました。山側の入会山や森林では、草や萱を刈り、薪を採り、木材を切り出してきました。
御小屋山では、上社の御柱となる大木が選ばれ、山麓を通って里へ曳き出されてきました。山側で刈られ、採られ、切り出されたものは、道を通って集落、田畑、社へ運ばれました。
八ヶ岳山麓は、川が刻んだ谷で水を使い、その間に残った細長い台地に集落や農地を置き、山側の原野や森林で草や萱を刈り、薪を採り、木材や御柱となる大木を切り出してきた土地です。
















