🟫長野|諏訪湖・釜口 ― 湖の水を一つの出口から天竜川へ送り出す土地

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釜口の要点諏訪湖には周囲から多くの川が流れ込みますが、湖から流れ出る河川は天竜川だけです。その水は岡谷市側の釜口から流れ出し、天竜川となって伊那谷方面へ続いていきます。釜口に近い台地には海戸遺跡があり、河道改修や水門建設よりはるか以前から人びとの住居が置かれていました。諏訪湖の氾濫を減らすため、江戸時代から釜口の出口を広げる工事が行われ、大正時代にはその先の天竜川も掘り下げられました。昭和になると、河道を掘り下げながら湖の水位も保つため、釜口水門がつくられました。現在の水門では、諏訪湖の水位と天竜川への放流量を調節しています。放流量の増加に合わせて、下流の天竜川でも河道が整えられ、水門には魚が通る魚道と、船が通る舟通しも設けられています。釜口では、もともと一つしかない湖の出口を広げ、その先の河道を掘り、水門で湖水位と放流量を調節する工事と管理が重ねられてきました。

1|諏訪湖の水が出ていく一つの場所

諏訪湖には、周囲の山や市街地から31の河川が流れ込んでいます。その一方で、湖から流れ出る河川は天竜川だけです。湖へ集まった水は、岡谷市側の釜口から流れ出し、天竜川となって南へ続いていきます。

釜口は、現在の水門がつくられる以前から、諏訪湖の水が外へ出ていく場所でした。現在の釜口水門も、諏訪湖から天竜川へ水が流れ出す釜口に設けられています。

2|湖の出口近くに置かれた古い集落

釜口に近い岡谷市天竜町には、海戸遺跡があります。諏訪湖に向かって張り出す台地の上に広がる遺跡で、湖の水が天竜川へ流れ出す釜口に近い位置にあります。

海戸遺跡では、縄文時代から平安時代までの住居跡や遺物が見つかっています。弥生時代には、海戸にも大きなムラがつくられたことが岡谷市の資料に記されています。

縄文時代の海戸遺跡からは、人の顔を表した把手を付けた深鉢形土器が出土し、国の重要文化財に指定されています。2026年の発掘調査でも、顔面把手や炉跡、埋甕、竪穴住居跡が新たに確認されています。

後の河道改修や水門建設よりはるか以前から、釜口に近い台地には人びとの住居が置かれていました。

3|洪水を減らすために広げられた釜口

諏訪湖には周囲から多くの川が流れ込みますが、湖から流れ出る河川は天竜川だけです。そのため諏訪湖は古くから氾濫を繰り返してきました。

そこで、湖から天竜川へ水を流しやすくするため、江戸時代から釜口の出口を広げる工事が行われました。

工事の対象になったのは、もともと諏訪湖の水が流れ出していた釜口です。その出口を広げ、湖にたまった水を天竜川へ流しやすくしていきました。

それでも諏訪湖の氾濫はなくなりませんでした。やがて工事は釜口だけでなく、その先を流れる天竜川の河道そのものへ広がっていきます。

4|出口の先まで掘り下げた天竜川

大正時代には、釜口から下流約1.5キロメートルにわたって、天竜川を掘り下げる工事が行われました。湖の出口を広げるだけでなく、その先の河道を掘り下げ、水が天竜川へ流れていく道そのものに手が加えられたのです。

こうして釜口では、湖と川の境にある出口だけでなく、そこから下流へ続く天竜川までが、諏訪湖の水を流すための工事の対象になりました。

昭和に入ると、天竜川をさらに掘り下げることになりました。一方、その掘り下げによって諏訪湖の水位が低下することを防ぐ必要も生じます。そこで、湖から流れ出す水を調節する水門がつくられることになります。

5|湖の水位を保つためにつくられた水門

昭和に入ると、諏訪湖の氾濫を減らすため、天竜川をさらに掘り下げる工事が進められました。しかし、河道を掘り下げると、諏訪湖の水位も低下します。湖から水を流しやすくすると同時に、湖の利用に必要な水位を保つことが求められるようになりました。

そこで、諏訪湖から天竜川へ水が流れ出す釜口に、水位と流出する水量を調節する水門がつくられました。初代釜口水門は1932年(昭和7年)に着工し、1936年(昭和11年)に完成しました。

水門ができたことで、諏訪湖の自然の流出口に、ゲートで湖水位と放流量を調節する働きが加わりました。洪水時には天竜川への放流量を調節し、平常時には湖の利用に必要な水位を保つため、出口のゲートを操作するようになったのです。

6|湖と下流を見ながら水を流す

初代釜口水門がつくられた後も、諏訪湖の洪水対策は続きました。天竜川水系の治水計画が見直され、初代水門の約80メートル上流に現在の釜口水門が建設されました。新しい水門は1988年(昭和63年)に完成し、諏訪湖の水位と天竜川へ流す水量を調節しています。

大雨のとき、釜口からの放流量を増やすことで、諏訪湖の水位上昇を抑えることができます。一方、釜口から出た水はそのまま天竜川を下っていくため、下流側で流せる水量との関係もあります。

2006年7月の豪雨では、諏訪湖の水位が計画高水位を約12時間上回り、釜口水門からは最大約414立方メートル毎秒が放流されました。この洪水を受けて、水門からの最大放流量を毎秒400立方メートルから430立方メートルへ増やすとともに、その水量を安全に流せるよう、下流の天竜川でも河道の掘削や護岸の改修が行われました。

釜口では、水門から流す量を増やすことと、その水を安全に流せるよう下流の天竜川を整えることが、一緒に進められてきました。諏訪湖から天竜川へ水を流すには、湖の水位だけでなく、その先を流れる川の状態も関わっています。

7|魚と船が通る魚道と舟通し

現在の釜口水門には、諏訪湖から天竜川へ流す水量を調節するゲートのほかに、魚道と舟通しが設けられています。水門の右岸側には魚道、左岸側には舟通しがあります。

魚道は、諏訪湖と天竜川の間を魚が行き来するための通路です。水門で湖から流れ出す水量を調節しながら、魚は調節ゲートとは別につくられた魚道を通ることができます。

舟通しは、漁船などの船が諏訪湖と天竜川の間を行き来するための設備です。船は舟通しのゲートを使って、湖と川の間を移動します。

初代釜口水門にも、調節用の七つのゲートに加えて、魚道と舟通しが設けられていました。釜口では現在も、放流量は調節ゲートで調整され、魚は魚道を通り、船は舟通しを使って、諏訪湖と天竜川の間を移動します。

8|湖・せぎ・山麓・町場とは異なる釜口

諏訪湖周辺では、山や川から流れ込んだ水を湖が受け、湖面や浅瀬、湿地、湖岸が漁や田畑などに使われてきました。湖へ集まった水を受け、その周囲で暮らしに使うことが、この地域の大きな特徴です。

上川・宮川流域では、山麓から下る水をせぎへ取り入れ、複数の川筋を越えて、水の少ない田畑へ送りました。自然の川が山から湖へ下る一方で、人びとは用水路を横へ延ばし、別の川筋や田畑へ水を分けてきました。

八ヶ岳山麓では、山から下る川や湧水が谷をつくり、その間に細長い台地が残りました。台地には集落、谷には水場や田畑、そのさらに山側には森林や原野が広がり、人びとは異なる地形を使い分けてきました。

下諏訪では、山と湖の間の限られた町場に、春宮・秋宮、街道、宿場、温泉、仕事の場所が近接しています。町の道を御霊代や柴舟が進み、宿場では人馬や荷物を引き継ぎ、温泉は旅人と町の人びとに使われてきました。

釜口では、諏訪湖に集まった水が天竜川へ流れ出す一つの出口そのものに、繰り返し手が加えられてきました。出口を広げ、その先の天竜川を掘り下げ、水門で湖水位と放流量を調節し、水門には魚道と舟通しも設けられてきました。釜口では、天竜川へ流す水量と諏訪湖の水位を調節するため、出口と下流河道への工事、水門の管理が重ねられてきました。

9|釜口という土地の働き

諏訪湖には周囲から多くの川が流れ込み、その水は釜口という一つの出口から天竜川へ流れ出します。釜口に近い台地には、後の河道改修や水門建設よりはるか以前から人びとの住居が置かれていました。

諏訪湖の氾濫を減らすため、江戸時代から釜口の出口を広げる工事が行われました。大正時代には、その先の天竜川も約1.5キロメートルにわたって掘り下げられました。湖から水を流しやすくするための工事は、出口からその先の河道へ広がっていきました。

昭和になると、天竜川をさらに掘り下げながら、諏訪湖の水位を保つために釜口水門がつくられました。現在の水門では、諏訪湖の水位と天竜川への放流量を調節しています。放流量に合わせて下流の天竜川でも河道が整えられ、水門には魚が通る魚道と、船が通る舟通しも設けられています。

釜口は、諏訪湖に集まった水が天竜川へ流れ出す一つの出口です。その出口を広げ、下流の河道を掘り、水門で湖水位と放流量を調節しながら、諏訪湖から天竜川へ水を流すための工事と管理が重ねられてきました。

▶️ この土地を、現代の居場所から考える人の役割は、身を置く場所や周囲との関係の中から生まれることがあります。ある場所に身を置き、周囲との関係が続く中で、そこで必要な働きが見えてきます。釜口では、諏訪湖の出口という土地の条件に応じて、水を流すための工事や、湖水位と放流量を調節する管理が重ねられてきました。この土地の履歴は、居場所や周囲との関係から働きが生まれ、そこから役割へつながる順序を考える手がかりになります。▶ AI時代の居場所を読む