🟫 長野|鬼無里 ― 五つの道が谷の外へ延び、町の市と地域ごとの祭りが営まれた土地

1|裾花川と支流に沿って分かれる集落
鬼無里は、長野市街から裾花川を遡り、裾花峡を抜けた先にひらける山間の盆地です。荒倉山、虫倉山、戸隠表山、一夜山、物見山などの山々に囲まれ、その内側を裾花川が西から東へ流れています。
裾花川には、小川や天神川などの支流が流れ込みます。人びとが暮らせる平地は、川沿いの沖積地や河岸段丘などに限られ、集落は盆地の一か所にまとまらず、川筋ごとに分かれてきました。
盆地の中央には町区があります。裾花川沿いの日影側には、西京、上平、中区などの集落があり、小川の流域には財又をはじめとする集落があります。
町区には市が置かれ、町や西京からは谷の外へ向かう道が分かれました。一方、神社と祭りは、日影、町区、財又など、それぞれの地域に置かれてきました。道、市、祭りは、すべて同じ場所と範囲を担っていたわけではありません。
2|町と西京から分かれた五つの道
江戸時代の鬼無里には、松代往来、戸隠往来、安曇往来、高府往来、早川道などが通っていました。これらの道は、町や西京などで分かれ、戸隠、白馬・安曇、小川、長野盆地、越後方面へ続いていました。
松代往来は、町から瀬戸を通って東へ向かい、戸隠、七二会を経て松代方面へ続きました。
戸隠往来は、町から小川に沿って高橋へ進み、大望峠を越えて戸隠宝光社へ至りました。戸隠への参詣に加え、食料の補給や地域の産物を運ぶ道としても使われました。
安曇往来は、町から祖山、十二平、大久保、西京、落合を通り、柄山峠を越えて糸魚川街道へ合流しました。西京からは、嶺方峠、現在の白沢峠方面を越える道も分かれていました。
高府往来は、町から大洞峠を越えて小川村へ入り、大町街道へつながりました。早川道は、西京から土倉、小佐出、奥裾花を通って、越後の北陸街道方面へ延びていました。
五つの道が一か所から放射状に延びていたわけではありません。町を分岐点とする道がある一方、西京から分かれる道もありました。人びとは、向かう地域や運ぶ品に応じて、異なる谷と峠の道を使いました。
3|町区に立った六斎市と九斎市
複数の道が通じる鬼無里では、現在の町区に定期市が置かれました。天和三年(一六八三)に開設が許可され、当初は月六回の六斎市として始まりました。
安永九年(一七八〇)には、月九回開かれる九斎市となりました。毎月一・二・八の付く日が市日とされ、取引された商品の多くは麻でした。
近世から近代の鬼無里では麻の栽培が盛んで、麻を加工した畳糸もつくられました。麻、畳糸、鬼無里紙などは峠を越えて谷の外へ運ばれ、塩、米、酒、魚などが外から入ってきました。
町区の市では、村内外の商人が品物を売買しました。谷の中でつくられた品と、外から運ばれた生活物資が同じ町場に並んだことが、九斎市の具体的な働きです。
ただし、それぞれの品が、どの道を通り、鬼無里のどの集落へ運ばれたのかを、現在確認した資料だけですべて確定することはできません。ここで確認できるのは、五つの道を人と物が行き来し、町区に交易の場が置かれていたことです。
4|異なる範囲を巡る三つの祭り
鬼無里には、白髯神社、鬼無里神社、財又地区の諏訪神社など、地域ごとの神社と祭りがあります。三つの祭りは、鬼無里全域を同じ経路で巡るものではありません。参加する地域と、実際に動く道筋がそれぞれ異なります。
白髯神社|日影三区が関わる神楽巡行
裾花川右岸の河岸段丘上にある白髯神社は、上平区、中区、西京区からなる日影三区の産土神です。
春と秋の祭礼では、中区の祭世話人と囃子の担い手が中心となって準備を行います。神楽巡行には、西京区と上平区からも代表者が参加します。
巡行は、中区の会所である祖山公民館を出発し、中区活性化センターを経て白髯神社へ向かいます。日影三区が同じ神社の氏子となり、代表者が一つの祭礼へ参加していることが確認できます。
鬼無里神社|町区の道を巡る屋台
町区の鬼無里神社では、安政四年(一八五七)に制作された祭屋台が受け継がれています。屋台の手前半分には踊り子の舞台、後ろ半分には囃子方の場所があります。
屋台は松巌寺前で踊りを披露した後、神楽と列をつくり、地域の人びとが綱を引いて鬼無里神社へ向かいます。鳥居前や神社に向かう場所で舞を奉納し、最後に神社の舞台で獅子舞が奉納されます。
巡行の経路は、かつて九斎市が立ち、明治から大正期の町屋が残る町区の道です。鬼無里神社の屋台巡行は、町区の町場を具体的な舞台として行われています。
諏訪神社|財又地区で曳かれる御柱
小川左岸の断崖上にある財又地区の諏訪神社は、和協組、峯組、山内組、平組の産土神です。
御柱祭は、明治十七年(一八八四)に行われた第1回から、令和四年(二〇二二)の第24回までの開催年が、拝殿内の額に記録されています。祭りの始まりに関する話には伝承が含まれますが、明治十七年以降の開催は額によって確認されています。
御柱となる杉は地域の共有林から切り出され、休納所で冬を越します。大祭では、四組の人びとが男柱と女柱を、約一・五キロメートルの道のりを曳いて諏訪神社へ運びます。
白髯神社の祭礼、鬼無里神社の屋台巡行、諏訪神社の御柱祭は、それぞれ日影三区、町区、財又地区を主な範囲としています。三つの祭りが谷全体を一つの氏子圏として結んだのではなく、地域ごとの人びとが、それぞれの神社と道を通して祭りを受け継いできたのです。
5|伝承が結びついた山・神社・寺・地名
鬼無里には、一夜山と天武天皇の遷都計画をめぐる伝承があります。伝承では、遷都を妨げようとした鬼が一夜で山を築き、天皇が鬼を退けたため、「鬼のいない里」と呼ばれるようになったと語られています。
また、鬼女紅葉についても、都から鬼無里へ移された女性が、人びとに都の文化を伝え、後に荒倉山へ入り、平維茂に討たれたという伝承があります。紅葉は、都の文化を伝えた女性として語られる一方、鬼女として討たれる存在としても語られています。
町区の松巌寺は、紅葉の菩提所と伝えられる地蔵院を前身とし、境内には紅葉の墓と呼ばれる石塔があります。鬼無里には、遷都伝説に結びつけられた東京、西京という集落名も残っています。
一夜山や東京・西京には遷都をめぐる物語が、松巌寺や石塔には紅葉をめぐる物語が結びついています。鬼無里では、伝承が山、寺、石塔、地名など、複数の場所に分かれて残されてきました。
6|鬼無里という土地に置かれてきたもの
鬼無里では、裾花川とその支流に沿って集落が分かれてきました。町や西京からは五つの主な道が異なる方向へ延び、人や物が峠を越えて行き来しました。
町区には六斎市、のちの九斎市が置かれました。麻、畳糸、鬼無里紙が外へ運ばれ、塩、米、酒、魚などが入るなかで、町区は村内外の商人が品物を売買する場所となりました。
町区に市が置かれた一方、祭りは地域ごとに異なる場所で営まれてきました。白髯神社の祭礼には日影三区が関わり、鬼無里神社の屋台は町区を巡り、諏訪神社の御柱祭は財又地区で行われてきました。
伝承も一つの場所だけに残されたのではありません。一夜山や東京・西京には遷都をめぐる物語が、松巌寺や紅葉の墓と呼ばれる石塔には紅葉をめぐる物語が結びついています。
道、市、祭り、伝承は、それぞれ異なる時代と事情の中で生まれ、鬼無里の異なる場所で使われ、営まれ、語り継がれてきました。
鬼無里は、五つの道が谷の外へ延び、町区に交易の場が置かれる一方、祭りと伝承は地域ごとの神社や山、寺、地名に結びついてきた土地です。一つの中心がすべてを担った土地というより、人や物が動く場所、祭りを営む場所、物語を語り継ぐ場所が、それぞれ異なる範囲に置かれてきた土地として読むことができます。






























