🟫長野|諏訪湖周辺 ― 湖面を漁場に、浅瀬を田畑に変え、釜口から水を送り出した土地

諏訪湖畔
諏訪湖周辺の要点諏訪湖には、周囲の山地から大小三十一の河川が流れ込んでいます。ただ湖から流れ出す川は天竜川だけですが、その入口となる釜口が、湖に集まった水の出口となってきました。湖岸では、水位の変化や河川が運ぶ土砂によって、浅瀬、湿地、陸地の境が動いてきました。人びとは湖面で漁を行い、舟で砂や土を運び、湿地や浅瀬を田畑へ変えてきました。一方、湖岸の低地では増水による浸水が繰り返されました。住民は釜口や天竜川を手入れし、のちには河床の掘削や水門によって、湖から水を流れ出しやすくしてきました。諏訪湖周辺は、湖面と浅瀬を漁に使い、湿地を田畑へ変え、増水に備えて釜口を手入れしながら、山々から集まる水と暮らしてきた土地です。

1|山々から水が集まる諏訪湖

諏訪湖は、八ヶ岳、霧ヶ峰、南アルプスなどの山地に囲まれた諏訪盆地の北西部にあります。周囲の山地や平地から、上川、宮川、砥川、横河川など大小三十一の河川が流れ込みます。

北側には、砥川や横河川などがつくった扇状地が湖へ接しています。南東側には、上川や宮川が流れ込む高低差の小さな低地が広がり、水が増えると広い範囲へ浸水しやすい地形になっています。

湖に集まった水は、西側の釜口から天竜川へ流れ出します。諏訪湖から外へ出る河川は天竜川だけです。

周囲の山々から川が下り、湖へ集まり、釜口から伊那谷方面へ出ていく。この水の流れが、諏訪湖周辺の地形と暮らしの土台になってきました。

2|水と陸の境を変えてきた湖岸

現在の諏訪湖岸を、昔から変わらない境の地として見ることはできません。河川が運ぶ土砂、水位の低下、浅瀬や湿地の陸地化、埋め立て、浚渫などによって、湖面と陸地の境は長い時間をかけて移動してきました。

湖の南東側にある渋崎や豊田の周辺は遠浅でした。水位が下がると広い浅瀬や湿地が現れ、人びとは湖の砂を舟で運び、土地をかさ上げして水田へ変えました。

昭和初期には上川の流路が付け替えられ、その後、上川が運んだ土砂によって河口周辺に新しい洲が広がりました。昭和後期には、湖底の浚渫土などを用いた埋め立ても進み、湖畔公園や道路、施設が置かれる現在の湖岸の一部が形づくられました。

諏訪湖周辺では、水が減ると浅瀬や湿地が現れ、そこへ砂や土を入れて田畑や市街地へ変えられてきました。湖岸は自然の力だけで動くのではなく、人びとの作業によってもつくり替えられてきたのです。

3|沖・浅瀬・氷上を使った漁

諏訪湖では、古くから魚や貝をとる営みが続けられてきました。湖岸の遺跡からは網に用いたと考えられる石や土製の錘が見つかり、中世の記録にも諏訪湖の漁が現れます。

湖の漁では、場所と季節に応じて異なる道具が使われました。二艘の舟で網を引く沖曳、湖岸の浅瀬へ網を沈める四つ手網、氷に穴を開けて網を入れる氷曳などがあります。

浅い湖底へ石を積み、冬に魚が集まる場所をつくる「やつか」も行われました。沖、河口、浅瀬、結氷した湖面という異なる場所を使い分けながら、コイやフナなどをとってきました。

明治以降には、漁法や漁場をめぐる規則が整えられました。大正期以降にはワカサギなどの移植・放流も進められ、養殖や放流によって魚を育てる取り組みが広がりました。

湖面は、自然に魚が生きる場所であると同時に、舟、網、石積み、養殖や放流によって、人びとが継続的に使う仕事の場となってきました。

4|舟で土砂を運び田畑をつくる

諏訪湖の舟は、漁だけに使われたわけではありません。渋崎や豊田では、湖からすくい上げた砂を舟で運び、湿地をかさ上げして水田をつくりました。

釜口周辺の掘削工事でも、掘り出された土砂が大型の舟で運ばれました。その土砂は湖岸の浅瀬へ入れられ、新しい水田をつくるために用いられました。

舟は湖面で魚を追う道具であるとともに、水と陸の境を変える作業にも使われたのです。湖底や流出口から土砂を運び、浅瀬や湿地を人が使える陸地へ変えてきました。

高島も、湖岸利用の変化を示す一つの場所です。高島には、漁業を営む村落があったことが記録されています。その村を移して高島城を築いたといわれ、完成当時の城は湖水と湿地に囲まれていました。

高島では、漁を行う湖岸から、湖水と湿地を利用した城へ、さらに水田や市街地へと、土地の使われ方が時代ごとに変わってきました。

5|増水する湖と排水の手入れ

諏訪湖には多くの川から水が入りますが、流出口は天竜川一本だけです。大雨や雪解けによって急に水が増えると、流出が追いつかず、湖岸低地や中小河川の周辺で浸水が繰り返されました。

水位が下がったときに浅瀬を水田へ変えても、湖水が増えれば田畑は再び水につかります。湖岸で暮らす人びとには、土地をつくるだけでなく、湖から水を出し続ける作業が必要でした。

渋崎や豊田などの住民は、江戸時代から釜口や天竜川に生えた草を刈り、流れを妨げる木の枝などを取り除いてきました。湖から水が流れ出しやすくなるよう、流出口と川を手入れしていたのです。

明治末の大洪水後には、関係町村と天竜川沿いの製糸業者が協議し、十九か所の水車と川をせき止める設備の撤去、河床の掘り下げ、水車の電動化などについて合意しました。

大正二年秋から翌年の春にかけて、釜口橋から下流約千四百メートルの天竜川が浚渫されました。この工事によって、諏訪湖の平水位は約二十四センチ下がったとされています。

湖岸の田畑を浸水から守ることと、天竜川沿いで水を仕事に使うことは、同じ水の流れの中にありました。人びとは水車や川の設備、河床の高さを具体的に変えながら、湖岸と下流の暮らしに関わる排水方法を組み直してきました。

6|冬の湖面を読み続けた御神渡り

寒さが続いて諏訪湖が全面結氷すると、気温の変化によって氷が収縮と膨張を繰り返します。その力によって氷に亀裂が入り、筋状に盛り上がることがあります。この現象が御神渡りです。

諏訪市小和田の八劔神社は、湖面の状態を観察し、御神渡りが現れたと判断した年には拝観式を行ってきました。氷の筋の方向などから、その年の天候、農作物、世の中の動きを占い、結果を記録してきました。

御神渡りには、上社の男神が下社の女神のもとへ通った道筋だという伝承もあります。これは自然現象そのものの説明ではありませんが、冬の湖面に現れる変化を、諏訪大社の神々に結びつけて受け止めてきたことを示しています。

諏訪湖の人びとは、氷の変化を一時的な珍しい現象として眺めるだけでなく、観察し、神事を行い、記録として残してきました。冬の湖面もまた、土地の変化を読み取る場所となってきたのです。

7|釜口から天竜川へ出る水

釜口は、諏訪湖から天竜川へ水が流れ出す唯一の場所です。かつては出口が狭く、川底も高かったため、湖に集まった水が流れ出しにくい状態でした。

江戸時代には、流出口を広げるための水路が掘られ、川の流れを妨げていた島や土砂を取り除く工事が行われました。掘り出された土砂の一部は舟で対岸へ運ばれ、浅瀬を水田へ変えるために使われました。

大正期には、釜口から下流の天竜川がさらに掘り下げられました。自然の流出口だった釜口に人の手が加わり、湖水を流れ出しやすくする場所へ変わっていきました。

昭和十一年には初代釜口水門が完成しました。昭和六十三年に完成した現在の水門は、洪水時の放流、季節ごとの湖水位、天竜川下流で必要となる水量を調整しています。魚道と舟通しも、現在の水門施設に設けられています。

釜口は、湖に集まった水をただ外へ流す出口ではありません。湖岸の浸水と下流の水利用を見ながら、水をどの程度送り出すかを管理する場所となっています。

8|上川・宮川流域、下諏訪との違い

上川・宮川流域では、山麓から下った水が、諏訪湖へ届く前に田畑や集落へ分けられてきました。水路や川沿いには、農地、集落、道、上社前宮・本宮などが置かれています。

下諏訪では、下社春宮・秋宮、中山道と甲州道中、宿場、温泉が町場を形づくりました。湖岸だけでなく、神社、街道、宿場、温泉の近接が、人の集まりを支えてきた土地です。

これに対し諏訪湖周辺では、湖へ集まった水と、変化する湖面・浅瀬・湿地・流出口が暮らしの条件になってきました。人びとは湖面を漁に使い、舟で土砂を運び、湿地を田畑へ変え、増水に備えて釜口と天竜川を手入れしました。

9|諏訪湖周辺という土地の働き

諏訪湖には周囲の山々から多くの川が流れ込み、その水は湖岸に浅瀬や湿地をつくる一方、増水すると低地の田畑や集落を浸水させました。

人びとは、湖面と浅瀬を漁に使い、舟で砂や土を運んで湿地を田畑へ変えました。また、釜口や天竜川を手入れし、流出口を広げ、川底を掘ることで、湖水を流れ出しやすくしてきました。現在は釜口水門が、湖周辺と下流の洪水被害を抑えながら、季節ごとの湖水位と下流へ流す水量を管理しています。

冬には、湖面に現れる御神渡りを八劔神社が観察し、神事と記録として受け継いできました。漁、田畑づくり、排水、観察と記録は、変化する湖の異なる場所に応じて生まれた営みです。

諏訪湖周辺は、湖面と浅瀬を漁に使い、湿地を田畑へ変え、増水に備えて釜口を手入れしながら、山々から集まる水と暮らしてきた土地です。

▶️ この土地を、現代の居場所から考える諏訪湖周辺では、漁、湖岸の造成、排水の手入れ、冬の湖面の観察と記録が、変化する湖の状態に応じて担われてきました。湖の状態が変われば、土地に必要な働きも変わります。そうした諏訪湖周辺の営みは、役割や働き方が変わる時代に、人が変化する環境と関わりながら、どのように居場所を持てるのかを考える手がかりになります。▶ AI時代の居場所を読む